7月7日の突然の引退発表から1カ月。こちらの心配をよそに例年と変わりない暑中見舞いのやりとりがあった。

8月12日。着信メールには「暑い中、お疲れさまです! ボクはようやく家族とのんびりできそうです。体に気をつけてお過ごしください。これからゆっくり過ごせそうです。松坂大輔」とあった。

プロ23年、横浜高3年時に春夏甲子園連覇を達成してから四半世紀、絶えず背負ってきた大きな荷物をようやく下ろせたような安堵(あんど)感が文面から伝わってきた。

時間を巻き戻して、体に異変が起こり始めた頃について書きたい。2008年(平18)12月。18勝したメジャー2年目のオフだった。当時28歳の飛躍の原点を探るべく、当時横浜高校野球部部長だった小倉清一郎さん(77)に話を聞く機会があった。

「勝ってはいるけど、あちこちかばって投げているように見える。痛いんじゃないか。肘の位置が下がっていて下半身を柔らかく使えていない。肩と肘に負担がかかっていて、このままでは大きなケガをしてしまう。30歳まで持つか心配だ」

高校時代からよく走り、ブルペンでは納得のいくボールが続くまで200球でも300球でも投げ込んだ。小倉さんは当時を振り返り「ほぼ毎日、休みなく。その積み重ねがあったから今のダイスケがある」と話していた。それでも、数々のプロ野球選手を輩出し、その成長と下り坂を見続けてきた百戦錬磨の指導者の脳裏には30代前半での故障がよぎっていた。

明けてメジャー3年目。09年のシーズン前に第2回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)で日本を連覇に導き、MVP受賞。目覚ましい活躍を遂げて春季キャンプに戻るとブルペンに入らない日が続いた。メディカルチームのスタッフは07年のレッドソックス入団時から肩の炎症を精密検査で感知し、徹底した球数制限を課した。ある球団関係者は「肩、肘の筋肉繊維3カ所に重大な問題点がある」とも証言した。

さらにさかのぼって1999年(平11)西武入団直後のメディカルチェックでも肘に不安を抱える診断が出ていた。当時の球団本部長、浦田直治さん(85)が振り返る。「肘にネズミ(関節遊離体)がみつかった。これが暴れ出したら大変なことになる。1年目はなるべく先発の間隔をあけるように東尾(修氏=当時監督)に伝えたことがあった」。

プロ生活23年で、痛みや問題を抱えていない時期はほとんどなかった。だが、番記者として日米で5年半担当しながら本人の口から「痛い」という言葉を聞くことはついになかった。絶対に口にしなかった。

レッドソックス3年目はシーズン4勝に終わった。この年、3Aでの調整登板、リハビリを追いかける中で、明確に痛みを語らない理由を聞いたことがある。「痛い、かゆいは野球選手にはつきものなんです。痛くてもどうやって投げきるか、打ち取るか自分の頭にはそれしかない。投げることで、そのときの自分の体に合ったいいフォームを覚えさせる。そうやってトレーニングしてきました」。

痛かっただろう、投げられなくなって悔しかっただろう。最近2年は、復帰した西武に恩返しできずにいるストレスも重なった。日本中の病院を駆けずり回って、なんとか頸椎(けいつい)の痛みが引かないか孤独な闘いを続けてきた。それでも「痛い」とは最後まで言わなかった。

引退会見で涙を流した姿は、本当の自分を見せた希有な瞬間だった。ありのままの姿をファンの前で見せた最後のマウンドは、分厚く、強固にまとってきた鎧(よろい)を脱いだようなシーンだった。【01~02年西武担当、07~10年メジャー担当 山内崇章】

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