昭和最後のシーズンとなった1988年は、球史に残る近鉄の10・19だけでなく、南海、阪急の在阪パ2球団が身売りする激震の年となった。政界、財界を巻き込んだ企業のM&Aだが、一気に2球団とは…。この年から日刊スポーツはパ・リーグキャップ体制を敷き、初代キャップに指名された元記者で元大阪・和泉市長の井坂善行氏(66)は「昭和のプロ野球史に別れを告げる転換期となった」と振り返った。

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まさかとは思うが、今から思えば、あれは私に『ヒント』を与えてくれたひと言だったのかも知れない。

88年のシーズンは佳境を迎えていた。近鉄が西武に肉薄し、奇跡の逆転Vへ突っ走っていた。10・19の2日前の10月17日は、西宮での阪急-近鉄戦。関係者入り口を入った、私は一塁側ベンチに向かった。阪急ナインに会うためだったが、最初にあいさつしようと思っていた上田監督は、球団常務の矢形氏と2人でバックネットの前で話し合っていた。2人には親しくしていただいていたので遠慮なくその場に向かい、「しっかりしてくださいよ。話題は近鉄ばかりやないですか」とパ・リーグキャップとして阪急にハッパをかけたつもりだった。だが、その言葉に矢形氏が反応した。

「何を言うとんや。そのうち、ウチもドカンと大きなことやったるから待っとけ」

この時点で2人にはオリエント・リース(現オリックス)への身売りは知らされていた。そこまで言うのなら、「ウチはもっと大きな話題がある。身売りや」と教えてくれたらいいのにと思ったが、遠回しな言い方が阪急身売りのことだとは、夢にも思わなかった。2日後の10月19日。近鉄が川崎球場で連勝すれば優勝という「10・19」の試合中、ネット裏の記者席に阪急身売りの第一報が流れた。

私の記者席の前の席には元阪急監督の西本幸雄氏が評論家として座っていた。目の前で行われている歴史的な大一番もそっちのけで、記者席は一気に騒然とした。その空気を察した西本氏が「やっぱりそうか」とつぶやいたのを、今でも鮮明に覚えている。何らかの情報が西本氏にも入っていたのだろう。

それにしても、シーズンの優勝が決まる日に、同じリーグのチームが横やりを入れるような身売りとはどういうことなのか。記者席では、阪急に対する“背信”を恨む声も出ていた。

このシーズンから、ニッカンでは南海、阪急、近鉄の在阪パ3球団を統括するパ・リーグキャップ体制を敷いていた。初代キャップを拝命された私は、デスクに無理を言って10・19は万全の取材態勢を取った。その中には援軍として阪急担当のS記者も加わっていたが、阪急身売りの一報を伝えると、「エーッ、何をさらすんじゃ阪急は」と大声で叫んですぐに帰阪した。

長いプロ野球史には、数々の事件が起こっている。古くは「黒い霧事件」、国会まで巻き込んだ「江川騒動」…。阪神で繰り返された「お家騒動」もスクープ合戦の戦場となってきた。

88年は結果的に昭和最後のプロ野球のペナントレースになった。グラウンドでは近鉄が球史に残る激闘を見せたが、グラウンド外では一気に2球団、しかも南海、阪急と在阪パ・リーグがともに身売りする激震の年になった。昭和に別れを告げ、プロ野球界の新しい時代への大転換期だったということなのだろうか。

南海の身売りは、球団誘致に熱心だった福岡の政財界が積極的に動いた。阪急は当時の三和銀行が主催する部課長クラスの異業種交流会で、オリエント・リースの課長のひと言がきっかけとなって流れができた。

そんな身売り騒動が一段落した時、阪急の球団常務の矢形氏と会った。「あれってヒントくれたんですか?」と聞くと、ニヤっと笑って話題を変えられた。

一連の報道は抜きつ抜かれつの毎日だったが、プロ野球記者としてその場に立ち会えたことは、今でも『記者冥利(みょうり)』だと誇りに思っている。

◆井坂善行(いさか・よしゆき)1955年(昭30)2月22日生まれ。PL学園(硬式野球部)、追手門学院大を経て、77年日刊スポーツ新聞社入社。阪急、阪神、近鉄、パ・リーグキャップ、遊軍記者を担当後、プロ野球デスク。阪神の日本一、近鉄の10・19、南海と阪急の身売りなど、在阪球団の激動期に第一線記者として活躍した。92年大阪・和泉市議選出馬のため退社。市議在任中は市議会議長、近畿市議会議長会会長などを歴任し、05年和泉市長に初当選、1期4年務めた。現在は不動産、経営コンサルタント業。PL学園硬式野球部OB会幹事。