日刊スポーツの大型連載「監督」の第5弾は、大毎、阪急、近鉄を率いて8度のリーグ優勝を果たした西本幸雄氏(享年91)。チーム創設32年目の初優勝をもたらした阪急では、妥協知らずの厳しい指導力で選手を育て、鍛え上げながら黄金時代を築いた。

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その男と待ち合わせをしたのは、かつて阪急のホームグラウンド、西宮球場の跡地だった。現在は商業施設の阪急西宮ガーデンズに姿を変えてにぎわっている。

現れたのは米田哲也だ。歴代2位の通算350勝男。「球場は途中から芝になったが、それまでは外野に石ころがいっぱいで、センター前ヒットがイレギュラーで二塁打になるんだ」と懐かしんだ。

監督を信任するか、否か-。結果は「×印」が7人、「白票」が4人といわれる。「どうせ聞かれると思った。おれはペケにした」。しかし、唐突だった採決に困惑したという。

「今だから言うが、おれは西本さんが、4番だった戸口天従さんが、よく酒を飲むやつだから外すと言うから、ただでさえ打てないチームなのに、打ってもらわないと困る。だから反対だと言ったんだ。そんな酒を飲むから外すというのは困るとね。だからペケにした。結局、戸口さんは辞めるわけだが、後で監督を認める、認めないにすり替わったのか、おれの解釈が間違いだったのか、今でもよぉわからん」

プロ8年目に3年連続2ケタの17勝(14敗)を挙げた足立光宏も「白票」を投じた理由について「ぼく自身まだ若かったし、学校の委員長を選ぶんじゃないわけで、よくわからんかった」と話す。

「だって西本さんで何が悪いんやろうと思っていた。こんなのする必要ないだろうと思った。晩年になって、西本さんに白紙で出しましたと言ったら、ジロッとにらまれたけどね(笑い)。一人前にしてもらったのは、西本さんのおかげだった」

自身をはかりに掛けた西本だったが、選手たちとは若干のボタンの掛け違いはあったようだ。しかし、足立が「西本さんに見られているというチームの緊張感につながった」と言ったように、万年Bクラスの組織に刺激を与えたのは間違いなかった。

指揮を執って5年目の67年は、足立の20勝10敗をはじめ、米田18勝15敗、梶本15勝9敗、石井茂雄9勝4敗と盤石の投手陣を中心とした戦いで、2位西鉄に9ゲーム差をつけて初優勝を飾った。

10月1日の西京極球場で優勝し、胴上げされた西本は、ファンがなだれ込んだ中をネット裏で観戦したオーナー小林米三のもとに駆け付けた。球団トップから支持を受けたことに謝意を伝えたかった。

第1次黄金時代の幕開け。ドラフト5位で阪急入りし、24歳でショートを守った阪本敏三は「オーナーと西本さんがフェンス越しに握手をした」と思いをはせた。西本イズムの浸透によって、そこには若手が芽吹いてきた。【編集委員・寺尾博和】(敬称略、つづく)

◆西本幸雄(にしもと・ゆきお)1920年(大9)4月25日生まれ、和歌山県出身。和歌山中(現・桐蔭)-立大から社会人を経て、50年毎日(現ロッテ)入団し55年引退。491試合、276安打、6本塁打、99打点、打率2割4分4厘。左投げ左打ち。60年に大毎監督に就任し優勝も同年退団。63~73年阪急監督で5度、74~81年近鉄監督で2度リーグ優勝も日本一はなし。79年正力賞受賞。88年殿堂入り。11年11月25日、91歳で死去。

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