日刊スポーツの大型連載「監督」の第5弾は、大毎、阪急、近鉄を率いて8度のリーグ優勝を果たした西本幸雄氏(享年91)。チーム創設32年目の初優勝をもたらした阪急では、妥協知らずの厳しい指導力で選手を育て、鍛え上げながら黄金時代を築いた。

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悲願の初優勝で、西本の後に胴上げされたのは、4番を務めた長池徳士(当時徳二)だ。球界のセオリーでも、2年目の若手が受ける処遇としては異例といえる。今も本人は「ぼくがびっくりしました。若造ではあり得ない」と恐縮する。

長池が現役引退後も、阪急、西武、南海、横浜、ロッテでコーチを歴任したのは、名指導者だったからだろう。西武で常勝チームを築いた広岡達朗のもと、同じマンションで寝食をともにする打撃コーチに就くなど、その経験を踏まえて自分の考えを示した。

「選手、コーチの立場でいろんな監督を見てきたが、自分でこれだと信念もった人が勝ちますね」

米田哲也が「それまでの監督はデンと構えてる感じだったが、西本さんは動く監督。コーチより早く動いてバッティングを教える人だった」と話したように、投高打低のチームに打力アップを求める。不信任投票を機に改革に乗り出したのが、“西本道場”だった。

西宮球場の左翼スタンド下には室内練習場があった。「西本さんに叱られたことがないが、ほめられたこともない。監督から近づいてくることはあったが、ぼくからは近寄れないし、怖かった。ものすごい練習量でした」と長池ら若手がそこに集まった。

優勝した1967年(昭42)は正月が道場開きだった。最初は数人だけが参加して行われた打撃練習だが、そのうち薄暗い空間は毎日盛況だった。

「西本さんは、練習しろとか、打ってこいとは一切言わない。正月だって来いとは言わなかった。命令じゃない。来たいものは来い。練習が終わったらすっと帰る。でも通じるんですよ、西本さんの熱意が。コーチの権限だけで選手を教える人と、本当になんとかモノにしてやるという接し方は分かるじゃないですか」

法大から入団した長池のルーキーイヤーは、68試合に出場したが7本塁打、打率2割6分3厘だった。4番での出場は12試合。打撃開眼したのは優勝を遂げた67年、西本はその2年生を125試合に4番で起用し、不動を決め込んだ。

長池の左肩に顎(あご)を乗せた独特の構えから長打を生む技術は、打撃コーチだった青田昇から指導を施された。ただ監督西本、コーチ青田と2人からの同時指導に戸惑った。

「ぼくからどちらかにしてほしいと言うたんです。そしたら西本さんが『アオちゃん、頼むで』といって、それからは、よほど悩んでいるとき以外は、口を出さなくなった。それもまた監督としてえらいところですよね。青田さんからはボールの内側をたたくように教えられました。それも“インサイドアウト”じゃなく、内から内のスイングで“インサイドイン”なんです。打撃で難しいのはボールとバットを持つ手の距離です。青田さんの着眼点はすごいと思いました。もう引っ張り一辺倒で、全打席ホームランを狙いました」

教えまくる青田、腕組みして見守る西本。「キャンプでは毎日つきっきりでした」。大学時代に通算3本塁打だった未完の大器が花開いた。【編集委員・寺尾博和】(敬称略、つづく)