日刊スポーツの大型連載「監督」の第5弾は、大毎、阪急、近鉄を率いて8度のリーグ優勝を果たした西本幸雄氏(享年91)。チーム創設32年目の初優勝をもたらした阪急では、妥協知らずの厳しい指導力で選手を育て、鍛え上げながら黄金時代を築いた。

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阪急が優勝した1971年(昭46)のオープン戦に打率1割台で不振だった加藤秀司だが、西本の3番起用はぶれなかった。加藤は外してほしいと申し出たが「そんな弱気でどうするんや」とたしなめられた。

オープン戦が6試合目になった3月10日の広島戦(西京極)、加藤は1回に先発の外木場義郎から左中間スタンドに待望の1号本塁打をたたき込んだ。

「京都は雪がちらついた。それまでタコばっかりで悩んでたし、マスコミにたたかれ、使われるのがイヤだった。でも振ったところにボールが当たった。ベンチに帰ったら、西本さんがニコッとして『今の(打撃)や』と言って手を握られた。あのときのことは今も忘れていない」

第4打席の8回にも三好幸雄から右越えに2号本塁打を放って調子を取り戻した加藤は、オープン戦を打率3割2分3厘で開幕に突入。3番に固定され、ロッテ江藤慎一との首位打者争いは2位(3割2分1厘)だったが、チーム優勝に大いに貢献した。

加藤と同じ松下電器(現パナソニック)から68年ドラフト7位でプロ入りした三羽がらすの1人が“世界の盗塁王”の福本豊だ。チームは第1次黄金時代の真っただ中で、中心打者に育っていく若手2人は「えらいとこ入ったな」と言い合った。

福本は加藤より1年前の70年にレギュラーになった。その年はリーグトップの75盗塁を記録し、13年連続タイトルを獲得。福本に続く2番に起用されたのは、71年阪本敏三、72年は大熊忠義。トップバッターの福本をアシストし、連続優勝を果たした。

いぶし銀の働きだった大熊は内外野を守ったが「福本が出てきてヨーイドンで走ったら速すぎて遊ばれてましたわ。おれもセンターを守ったが、これでレフトか補欠やなと思いましたね。(福本は)日本のスターになれるでとなった。体は小さいけど、西本さんは引っ張れと教えた」という。

身長169センチ。俊足で左の小兵の福本だから、内野安打で出塁すれば打率も上がるし、得点機もつくりやすい。だが内野安打を狙ってゴロを転がす打撃練習を試みる福本をみると、西本は「おいっ、なにやっとんじゃ。やめてまえ!」と許さなかった。

同じ左打者の加藤もレフト方向に打ち返す打撃は自信があったが引っ張れなかった。「おれにしても福さんにしても、インコースをさばけて、真ん中から外はうまく流せる確率の高い打者を育てようとしたんじゃないかな」。

福本は西本に「体の回転で打つ」ことを徹底される。通算2543安打のうち、449二塁打、プロ野球記録の115三塁打、本塁打は208本も記録。「走って打つな」「しっかり腰を切ってから走れ」。西本の教えは愛弟子を超一流の道に導いていく。【編集委員・寺尾博和】(敬称略、つづく)

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