智将・三原魔術がよみがえる! 日刊スポーツの大型連載「監督」の第6弾は巨人、西鉄、大洋、近鉄、ヤクルトを率いて通算監督勝利数2位の三原脩氏を続載する。

    ◇    ◇    ◇

座右の銘は「日々新たなり」-。三原は弱者が強者を倒す醍醐味(だいごみ)を次のようにメモしている。

「野球は実力のある者、強い者が必ず勝つというわけではない。他のスポーツでは、強い者はよほどのことがない限り負けない。(中略)野球は団体競技で、勝負はかなりの運の要素に支配される。そこに面白さがあり、難しさがある」

巨人で戦後初の優勝を遂げ、西鉄でも初優勝につくと、56年から3年連続日本一。日々立ち止まることなく指揮をとり続けた智将は、1960年(昭35)から大洋ホエールズで采配を振った。

DeNAの前身だった大洋は、それまで6年連続最下位で低迷した。社会は高度成長期で、娯楽といえば映画が全盛で、お茶の間にカラーテレビが放送された。大洋漁業が親会社の大洋で、三原は初年度から頂点に導いた。

エースは下手投げの秋山登で、先発、中継ぎ、抑えで投げまくった。西鉄稲尾に強いたように、打者によって一塁に回すワンポイント起用を用いるなど、フル回転の馬車馬ぶりだった。

開幕直前に秋山が負傷し、6連敗で滑り出したチームは、3年目の島田源太郎、大石正彦らが先発陣を支えた。三原の人材がもつ可能性を最大限に引き出す眼力は、くすぶったある投手を再生させる。

1953年(昭28)柳川商から大洋松竹ロビンス入りした権藤正利は15勝で新人王をとった後は不振を極めた。西鉄の“野武士軍団”とは裏腹に、負け犬根性がしみついたチームで、権藤も伸び悩んだ。

三原は自信喪失した権藤に直接会って現役続行を決断させる。投手の分業制が明確でない時代にリリーフ起用で復調。12勝5敗、防御率1・42。その後も東映、阪神に移籍して21年間の現役生活を送った。

三原が「大洋の優勝に欠かせなかった」と信頼したのが、正捕手の土井淳だった。秋山不在の開幕から弱小投手陣を引っ張った、土井のリードが大きい。西鉄で日比野武を重用したように扇の要はポイントだった。

後に大洋監督、85年吉田義男が率いた阪神でヘッド兼バッテリーコーチとして優勝に導いた。「戦力をスミからスミまで把握し、選手の長所を伸ばした」という“三原イズム”がしみついていた。

主力打者は、打率3割1厘の桑田武、大洋、日本ハムでコーチについた近藤和彦ら。人を見極め、組織を動かし、育てながら勝った。球団創設11年目、前年最下位に沈んだ大洋は初優勝を達成するのだった。【寺尾博和編集委員】

(敬称略、つづく)

連載「監督」まとめはこちら>>