日刊スポーツの大型連載「監督」の第7弾は阪神球団史上、唯一の日本一監督、吉田義男氏(88=日刊スポーツ客員評論家)編をお届けします。伝説として語り継がれる1985年(昭60)のリーグ優勝、日本一の背景には何があったのか。3度の監督を経験するなど、阪神の生き字引的な存在の“虎のビッグボス”が真実を語り尽くします。

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1952年(昭27)、山城高から立命大に進学を決めた吉田は、すぐ練習に合流し、1年春からレギュラーで出場した。秋に西宮球場で行われた東西対抗戦が急成長のきっかけになった。

関東代表の早大は荒川博、広岡達朗、小森光生ら好選手ぞろい。ショート吉田は併殺崩しで滑り込んできた一塁走者・広岡に左スネをスパイクされ、破れたユニホームから血が出た。

「その傷あとはプロに入ってからも長いこと残ってました。でもその傷がプロでメシを食っていく励みになった。技術の進歩につながったと思ってるんです」

早大とは入学前の関東遠征でも一戦交えており、監督の森茂雄も「関西には吉田がいる」と記憶にとどめたのだという。ひらりと飛んだ“牛若丸”は、この血染めのプレーがルーツかもしれない。

プロ入り後も、ウォーリー与那嶺(巨人)から米国仕込みの激しいスライディングを受けた吉田は、今ではお目にかかれない走者を避けながらの華麗なジャンピングスローを身につけていった。

秋口から激しく攻勢をかけてきたタイガースのスカウトがいる。“まむし”といわれた青木一三が、自宅、大学に食いついた。本命は慶大内野手の松本豊だったが、ノンプロの鐘紡入りで方向転換した。

青木には「お前は絶対にプロでやれる」と口説かれた。1年で中退してのプロ入りは大学、野球部の間でも議論されたが、早くに両親を亡くした経済的事情も理解されて快く送り出された。

入団前に大阪市内で開かれた球団納会に参加したときのことだ。藤村富美男、金田正泰、田宮謙次郎ら主力がそろった宴席で、世慣れしていない吉田はすっかり浮いていたという。そのさまは、これから阪神で先輩の立場になる選手たちに、納会の場に顔をだした吉田が新入団のマネジャーと勘違いされるほどだった。

「わたしは学生服で行きました。青木さんに『藤村さん、金田さんも、吉田はプロでも十分やれると言ってるぞ』と聞かされてたのに、実際はまったく眼中にないといった感じで、無視も同然でした」

後で思えば、腕利きスカウトの偽りの言葉に懐柔されていた。だがまさかその男が、史上最強ショートに育って、猛虎の伝統を継承し、日本一監督の座に就くとはだれが想像しただろうか。

第2次世界大戦にピリオドが打たれた日本が、復興に向かう時代に差し掛かっていた。立命大を中退し、契約金50万円、月給3万円で「大阪タイガース」に入団。その詳細な条件は、京都新聞がすっぱ抜いた。

監督は松木謙治郎で、水原巨人に競り負けて2位に終わった年だった。パ・リーグは山本(鶴岡)一人の南海が優勝。当時の大卒の初任給が約7000円、物価はかけそば1杯が15円、コーヒーが30円の時代だった。

「監督は勝つことで評価されるものです。監督、コーチは“一蓮托生(いちれんたくしょう)”であるべきでしょうね」

そう力説した吉田は、頂点に上り詰めた85年の組閣について口を開いた。【寺尾博和編集委員】(敬称略、つづく)

◆吉田義男(よしだ・よしお)1933年(昭8)7月26日、京都府生まれ。山城高-立命大を経て53年阪神入団。現役時代は好守好打の名遊撃手として活躍。俊敏な動きから「今牛若丸」の異名を取り、守備力はプロ野球史上最高と評される。69年限りで引退。通算2007試合、1864安打、350盗塁、打率2割6分7厘。現役時代は167センチ、56キロ。右投げ右打ち。背番号23は阪神の永久欠番。75~77年、85~87年、97~98年と3期にわたり阪神監督。2期目の85年に、チームを初の日本一に導いた。89年から95年まで仏ナショナルチームの監督に就任。00年から日刊スポーツ客員評論家。92年殿堂入り。

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