日刊スポーツの大型連載「監督」の第7弾は阪神球団史上、唯一の日本一監督、吉田義男氏(88=日刊スポーツ客員評論家)編をお届けします。伝説として語り継がれる1985年(昭60)のリーグ優勝、日本一の背景には何があったのか。3度の監督を経験するなど、阪神の生き字引的な存在の“虎のビッグボス”が真実を語り尽くします。

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1985年(昭60)、監督に返り咲いた吉田がつけた背番号は「81」だった。組織を変えるには人を代えるのが手っ取り早いが、まずは自身が新しい気持ちで再出発することだと考えた。

前回の監督時代に背負ったのは「1」。米大リーグでヤンキースの選手としてワールドシリーズに5度出場して4度の世界一、監督としても1度制覇した名選手で名将のビリー・マーチンにあこがれた。吉田の「1」はそれをまねた。

69年に現役を引退した吉田は、米大リーグの視察を繰り返し、キャンプからレギュラーシーズン、ワールドシリーズまで通い続けた。クローザーの必要性を痛感したのもこの時期だった。

今も大リーグをテレビ観戦する。例えば広島坂倉の捕手&三塁起用に「レッズ名捕手のジョニー・ベンチはダブルヘッダーの2戦目は三塁を守った。三塁手の衣笠(祥雄)も元は捕手。2つのポジションは関係性があるのかもしれない」と分析してみせる。

当時は、プロ野球出身者が米国野球を見に行くのはまれな時代だった。もちろん今のようにスポーツマスコミが頻繁にメジャーリーグ取材で渡米する機会もほとんどなかった。

ビリー・マーチンは名門ヤンキースの監督に5度就いたが、5度解任されている。しかも、特に厳しい論調で知られるニューヨークのメディアにも応じながら戦い続けた。

渡米を重ねた吉田は、激情派で知られる名監督の背番号「1」に、自らの姿をだぶらせた。その後はヤンキースの永久欠番になったが、ビリー・マーチンの信念を貫きながら率いる姿に心を揺さぶられた。

それでも2度目の阪神監督に就いた吉田は「周囲からはまったく期待感というものは感じませんでした。わたしはずっと新聞記者と仲が悪かったですから」と正直に語った。

「最初からなんでこいつが監督になったんやいうムードでしたわ。わたし自身はなんとも思いませんでしたがね。新聞記者でも中日の羽田さん、サンスポ平本さん、毎日村上さんの3人とだけは心やすく、マージャンもしたし、真摯(しんし)に向き合ってくれたように思いました」

監督生活を振り返った本人は、メディアには不人気だったと自負している。そこは阪神が“村山派”と“吉田派”に分裂した忌まわしい派閥の真実に触れざるを得ない。【寺尾博和編集委員】(敬称略、つづく)

◆吉田義男(よしだ・よしお)1933年(昭8)7月26日、京都府生まれ。山城高-立命大を経て53年阪神入団。現役時代は好守好打の名遊撃手として活躍。俊敏な動きから「今牛若丸」の異名を取り、守備力はプロ野球史上最高と評される。69年限りで引退。通算2007試合、1864安打、350盗塁、打率2割6分7厘。現役時代は167センチ、56キロ。右投げ右打ち。背番号23は阪神の永久欠番。75~77年、85~87年、97~98年と3期にわたり阪神監督。2期目の85年に、チームを初の日本一に導いた。89年から95年まで仏ナショナルチームの監督に就任。00年から日刊スポーツ客員評論家。92年殿堂入り。

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