日刊スポーツの大型連載「監督」の第7弾は阪神球団史上、唯一の日本一監督、吉田義男氏(88=日刊スポーツ客員評論家)編をお届けします。伝説として語り継がれる1985年(昭60)のリーグ優勝、日本一の背景には何があったのか。3度の監督を経験するなど、阪神の生き字引的な存在の“虎のビッグボス”が真実を語り尽くします。

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中国から伝来したことわざに“両雄並び立たず”がある。「牛若丸」の吉田義男と「ザトぺック投法」の村山実は交わらなかった。2人のレジェンドは不仲だったと伝わってきた。

甲子園球場の関係者用レストラン「蔦」で、村山は親しげに新聞記者に囲まれた。かたや吉田はそれを一見しながら、1人で食事をとることのほうが多かったという。

「当時の食堂は選手と新聞記者が一緒になっていました。村山は記者全員の食事代までもつようなところがあって記者ウケが良かったんでしょう。わたしは外部の人と仲良くする必要がないと思っていた。間違っていたとは思っていません。だから記者から人気がなかったんじゃないですかね」

吉田は「プロである以上、グラウンドで力を出し切るのがすべてだと思っていた」と目の前の一戦に集中すべきという考えだ。番記者と交流を重ねた村山とは正反対だった。

「わたしの世間での経験が浅かったかもしれません。でも村山とグラウンドで言い合うことはいくらでもあったが、ケンカしたことは1度もない。互いに認め合っていたと思っています。グラウンド外のことが尾を引いて誤解を招いたかもしれない。それが(マスコミによって)村山と対峙(たいじ)するようなストーリーを作られたのかもしれません。わたしにはどうしようもなかった」

監督就任後のマスコミ対応は緊迫した。試合後の監督の囲みは記者にとっても押したり引いたりの勝負の舞台。「そんなん言わんでも分かってますわ」「何度も聞くな」。しばしば風当たりの強い質問をぶつけられて声を荒らげた。

1985年(昭60)、前年までハワイ州マウイ島(マウイ・メモリアル・スタジアム)で行っていた春季キャンプは、高知県安芸市の安芸市営球場に場所を移してスタートを切った。

チーム宿舎は、高知市内から室戸市の方向に国道55号線を進んだ香南市にあった手結山観光ホテル(当時)。吉田は「夕食後は首脳陣だけが会場に残って夜遅くまでとことん話し合った」という。

「次の日はどういった練習をしたらいいか、今いる選手の力量の把握をし、いかに鍛えるべきか、若手が戦力としてでてくる可能性はあるのかなど。毎晩“ヘネシー”のボトルが何本も空になった」

高級ブランデーは後で優勝にすり替わった。吉田が初年度から断行したチーム改革は、最近のプロ野球ではお目にかかれない思い切った大コンバートの決断だった。【寺尾博和編集委員】

(敬称略、つづく)

◆吉田義男(よしだ・よしお)1933年(昭8)7月26日、京都府生まれ。山城高-立命大を経て53年阪神入団。現役時代は好守好打の名遊撃手として活躍。俊敏な動きから「今牛若丸」の異名を取り、守備力はプロ野球史上最高と評される。69年限りで引退。通算2007試合、1864安打、350盗塁、打率2割6分7厘。現役時代は167センチ、56キロ。右投げ右打ち。背番号23は阪神の永久欠番。75~77年、85~87年、97~98年と3期にわたり阪神監督。2期目の85年に、チームを初の日本一に導いた。89年から95年まで仏ナショナルチームの監督に就任。00年から日刊スポーツ客員評論家。92年殿堂入り。

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