日刊スポーツの大型連載「監督」の第7弾は阪神球団史上、唯一の日本一監督、吉田義男氏(88=日刊スポーツ客員評論家)編をお届けします。伝説として語り継がれる1985年(昭60)のリーグ優勝、日本一の背景には何があったのか。3度の監督を経験するなど、阪神の生き字引的な存在の“虎のビッグボス”が真実を語り尽くします。

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昭和の高度成長期は「巨人、大鵬、卵焼き」が流行語となった。吉田のメモリアルになった1985年(昭60)は、大相撲はウルフこと千代の富士、野球は阪神タイガースだった。

京都市中京区に生家があった吉田と中学、高校の同級生だった今井正治は、今でも母校・山城高近くの商店街で行われた優勝パレードで、地元の人々が熱狂したシーンが忘れられない。

今井によると、広島、巨人との三つどもえからセ・リーグ制覇、日本一の座をつかんだ吉田は故郷に凱旋(がいせん)した際、武将が甲冑(かっちゅう)の上から着た陣羽織姿で練り歩いたのだという。

「ヨシオは小さい頃から球拾いも嫌がらんかった。苦労したし、負けず嫌い。わたしにはヨシオが秀吉に見えた」。幼少時に「日吉丸」と名乗った豊臣秀吉の天下統一を、「牛若丸」の吉田にだぶらせた。

監督就任前の84年まで関西テレビ解説者を務めた吉田は「戦力的に投手陣が弱かった」と古巣を分析していた。そこで、弱体化した投手力をカバーするため、レッドソックスから新外国人投手リッチ・ゲイルを獲得する。

吉田はユニホームを脱いでいた間、大リーグ視察を繰り返している。本人いわく「アメリカかぶれ」。80年のフィリーズ-ロイヤルズのワールドシリーズを観戦したことが、監督就任直後の補強につながった。

当時ロイヤルズで先発していたのが、26歳のゲイルだった。その後も監督ジム・フライとは親交を重ねるが、現地で生チェックしていた分、ゲイルへの期待は膨らんだ。

「大きな体をしてアメリカで投げていたゲイルの投球は記憶にあった。85年は規定投球回数にも達して、13勝(8敗)でチームに貢献してくれました」

そしてチーム改革の“目玉”はコンバートを成功させることだった。選手の力量を見極め、適材適所に配置したい。「最初は真弓を外野にもっていくことが始まりでした」と明かす。

83年の首位打者でベストナイン。84年も内野手のレギュラーとして出場していた真弓明信の外野転向を実現するには、本人を説得する必要があった。

指揮官として、本人のプライドも思いはかった。吉田が真弓とさしで会ったのは、国鉄芦屋駅前の「竹園旅館(現ホテル竹園)」だ。監督がコンバートを打診すると、真弓から返ってきたのは意外な言葉だった。【寺尾博和編集委員】(敬称略、つづく)

◆吉田義男(よしだ・よしお)1933年(昭8)7月26日、京都府生まれ。山城高-立命大を経て53年阪神入団。現役時代は好守好打の名遊撃手として活躍。俊敏な動きから「今牛若丸」の異名を取り、守備力はプロ野球史上最高と評される。69年限りで引退。通算2007試合、1864安打、350盗塁、打率2割6分7厘。現役時代は167センチ、56キロ。右投げ右打ち。背番号23は阪神の永久欠番。75~77年、85~87年、97~98年と3期にわたり阪神監督。2期目の85年に、チームを初の日本一に導いた。89年から95年まで仏ナショナルチームの監督に就任。00年から日刊スポーツ客員評論家。92年殿堂入り。

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