日刊スポーツの大型連載「監督」の第7弾は阪神球団史上、唯一の日本一監督、吉田義男氏(88=日刊スポーツ客員評論家)編をお届けします。伝説として語り継がれる1985年(昭60)のリーグ優勝、日本一の背景には何があったのか。3度の監督を経験するなど、阪神の生き字引的な存在の“虎のビッグボス”が真実を語り尽くします。

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吉田が監督に就任する前年の1984年(昭59)は、岡田彰布が故障がちで、真弓明信が二塁手として99試合にスタメン出場した。真弓が当時のチーム事情について口を開いた。

「岡田がケガをしたから、おれが二塁を守ることになった。もし岡田のコンディションが万全だったら、平田に出番があったかどうかはわからなかった」

明大からプロ入り3年目の84年、平田勝男は遊撃で128試合に先発出場するなど急成長していた。吉田は真弓の右翼転向の意図について「平田をショートで起用したかった」と説明した。

「どうしてもセンターラインを確立して骨格を築きたかった。すごく伸びてきていた平田を使いたかったんです」

それは名遊撃手で知られた男の直感だったのかもしれない。ただし、内野のレギュラーだった真弓が外野転向を受け入れるかどうかまでは見通せないでいた。

吉田が面と向かってチーム構想を打ち明けると、真弓はそれをすんなりと受け入れた。そのときの心境を吉田は「うれしかった」と短い言葉で表現する。

「あのとき真弓が『試合に出られるのであればどこでもいいです』と言ってくれたのは、その年の新生チームにとってものすごく大きかった」

当時の気持ちを真弓は「その頃はもう自分の左膝が限界に近かった。内野は難しいと思っていたから、外野にいくことに反論しなかったし、素直に従った」と振り返った。

31歳の真弓は監督に対して「ただ…」といって注文を申し出た。

「『いったん外野にいったら、もう内野に戻さないでくださいね』とお願いした。『その代わり、外野でタイトルを取るぐらいのプレーをしますから』と話したのを覚えている」

真弓が自分のコンバートに条件をつけた話をするのは、これが初めてだ。ささやかな抵抗だったか、本心は知る由もない。ただ闘争心に火がついたことは確かだった。

85年の真弓は不動の1番打者として躍動。打率3割2分2厘、34本塁打、84打点に、リーグトップの108得点、さらにベストナインの活躍で優勝に貢献した。

吉田はこの世界で生き抜く真弓の決意に「この男はプロフェッショナルだと思いました」と振り返る。監督の的確な選手の見極めは、いつの時代もチームの行方を左右するということだろう。【寺尾博和編集委員】(敬称略、つづく)

◆吉田義男(よしだ・よしお)1933年(昭8)7月26日、京都府生まれ。山城高-立命大を経て53年阪神入団。現役時代は好守好打の名遊撃手として活躍。俊敏な動きから「今牛若丸」の異名を取り、守備力はプロ野球史上最高と評される。69年限りで引退。通算2007試合、1864安打、350盗塁、打率2割6分7厘。現役時代は167センチ、56キロ。右投げ右打ち。背番号23は阪神の永久欠番。75~77年、85~87年、97~98年と3期にわたり阪神監督。2期目の85年に、チームを初の日本一に導いた。89年から95年まで仏ナショナルチームの監督に就任。00年から日刊スポーツ客員評論家。92年殿堂入り。

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