日刊スポーツの大型連載「監督」の第7弾は阪神球団史上、唯一の日本一監督、吉田義男氏(88=日刊スポーツ客員評論家)編をお届けします。伝説として語り継がれる1985年(昭60)のリーグ優勝、日本一の背景には何があったのか。3度の監督を経験するなど、阪神の生き字引的な存在の“虎のビッグボス”が真実を語り尽くします。

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1985年(昭60)、監督に就いた吉田が大コンバート作戦で固執したのが、岡田彰布を外野から二塁にカムバックさせることだった。

「岡田は外野をやったり、一塁を守ったりで固定されていなかったんです。ぼくは本来はセカンドやと思っていました」

監督が安藤統男だった83年7月10日の広島戦(甲子園)。二塁を守っていたときに、アイルランドの打球に足をとられ、右大腿(だいたい)部の二頭筋断裂に見舞われた。

内野ゴロを捕球する際、ヒザを深く折って腰を落とすのが困難になった。84年も不安を抱えながら内外野を行き来し、宙に浮いた形だった(一塁41試合、二塁20試合、右翼45試合=代打から守備に就いた試合含む)。

吉田は「監督になるまで、岡田という男をほとんど知りませんでした」と言うと、岡田は「おれんとこは“村山派”やったからな」と苦笑する。

吉田は「村山派? そうでしょ。それでも岡田は外野の選手と違いますわ」と内野での潜在能力を認めた。すぐに守備走塁コーチの一枝修平にも意見を求めた。

「本人は足のほうは大丈夫という。一枝が『絶対できる』と言ってくれたので、トレーナーの猿木(忠男)に聞いたら、こちらも問題ないという。それで正式に本人に告げたんです」

岡田は本職の内野を外れた時の心境について、「外野から投手の周りに内野が集まってるのを見ていると、なに話してるんやろかと寂しい気持ちになって、野球やってる感がないんよ」と孤独感を感じたという。

そんな複雑な気持ちでいる選手に吉田は声をかけた。すでに内野から転向する真弓が右翼を守ることは決まっている。監督自身も覚悟を決めたということだろう。

「もはや岡田の逃げ道はなかった。本人も選手生命を懸けるしかなかったんと違いますか」

二塁を言い渡された岡田は「自分が思っていたこととぴったしやった」と敏感に反応した。

「吉田さんとは別に話したこともなかったのに、ずっと(解説者として)ネット裏から見とってくれてたんやろな。おれも内野が良かったし、セカンドで復帰したい気持ちが強かった」

ただ監督に「大丈夫」といった一枝は「岡田の守備に不安がないわけではなかった」と本心を口にしている。「それでも監督が決めたこと。それがすべて」と一蓮托生(いちれんたくしょう)の筋を通したのだ。

引退後の岡田は、阪神で優勝監督になった。「野村さんとも、星野さんとも違う。守備から入る監督はいなかった。吉田さんは影響を受けた1人」。吉田は“守りの野球”が虎の勝つ術(すべ)であることをコンバートによって証明し、岡田はその伝統を継承したといえるのかもしれない。【寺尾博和編集委員】(敬称略、つづく)

◆吉田義男(よしだ・よしお)1933年(昭8)7月26日、京都府生まれ。山城高-立命大を経て53年阪神入団。現役時代は好守好打の名遊撃手として活躍。俊敏な動きから「今牛若丸」の異名を取り、守備力はプロ野球史上最高と評される。69年限りで引退。通算2007試合、1864安打、350盗塁、打率2割6分7厘。現役時代は167センチ、56キロ。右投げ右打ち。背番号23は阪神の永久欠番。75~77年、85~87年、97~98年と3期にわたり阪神監督。2期目の85年に、チームを初の日本一に導いた。89年から95年まで仏ナショナルチームの監督に就任。00年から日刊スポーツ客員評論家。92年殿堂入り。

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