日刊スポーツの大型連載「監督」の第7弾は阪神球団史上、唯一の日本一監督、吉田義男氏(88=日刊スポーツ客員評論家)編をお届けします。伝説として語り継がれる1985年(昭60)のリーグ優勝、日本一の背景には何があったのか。3度の監督を経験するなど、阪神の生き字引的な存在の“虎のビッグボス”が真実を語り尽くします。

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プロ野球の取材では野手出身の監督と投手コーチの反りが合わず“衝突”するケースによく遭遇してきた。実際に強いチームというのはベンチが緊迫した雰囲気にあるのもまた事実だった。

ベンチ内で継投のタイミングを持ちかけられた投手担当コーチの米田哲也が「監督にお任せします」と答えると、吉田は「わからんから聞いとるんやないか!」と度々声を荒らげたという。

1985年(昭60)は4月17日巨人戦(甲子園)のバックスクリーン3連発だけが切り取られる。しかし、吉田は「監督の仕事として大きかったのは、その試合で抑えに中西をつぎ込んだことですわ」と話した。

「3連発の7回に逆転して6対3になったが、リリーフの福間が9回にクロマティ、原にホームランを打たれて1点差になるんです。抑えの山本和は、前のカードの広島戦で打たれていたので使いづらかった。わたしにはオープン戦できっぷの良い投球をした若手の姿がずっと頭に残っていた」

それが2年目の中西清起だった。3月3日、同じ高知県内がキャンプ地の阪急ブレーブスと行われたオープン戦で4回5安打2失点。実家の高知県宿毛市から父光之進、母春子が駆けつけてスタンドから息子を見守った。

吉田にとって開幕前のご当地登板で好投した残像はあったが、未知数の若手をピンチにつぎ込むのは冒険だった。このときの心境を吉田はいつも「清水の舞台から飛び降りる気持ちだった」と語ってきた。

「正直いって、わたし自身、中西を先発、リリーフの、どこで使うか決めかねていた。まったくの白紙ですから、行き当たりばったりと言われても仕方がない。でも中西があそこを抑えたのは、あのゲームだけでなく、シーズンを通しての大きなポイントでした」

監督は“土佐のいごっそう”の可能性に懸けた。中西本人は「まさか呼ばれるとは思わなかった」と驚いたが、中畑清を左飛、吉村禎章、代打駒田徳広を連続三振で見事に逃げ切って、プロ初セーブを挙げた。

中西は優勝した05年に監督の岡田彰布に投手コーチとして仕えた。指導者の立場から「あのシチュエーションで、ぼくをストッパーとして送り出すのは怖いし、勇気がいることだったと思います」という。

ピッチャー中西としては「自信というか、あれで自分に勢いがついたのは確かだった」と手応えを口にした。36歳の山本和行、23歳中西の抑え2枚がそろった。

シーズン後半に山本和の故障離脱によって、中西は大車輪の働きをみせた。最優秀救援投手賞に輝いたのも、トップの覚悟がはまった果実だったといえるだろう。

【寺尾博和編集委員】(敬称略、つづく)

◆吉田義男(よしだ・よしお)1933年(昭8)7月26日、京都府生まれ。山城高-立命大を経て53年阪神入団。現役時代は好守好打の名遊撃手として活躍。俊敏な動きから「今牛若丸」の異名を取り、守備力はプロ野球史上最高と評される。69年限りで引退。通算2007試合、1864安打、350盗塁、打率2割6分7厘。現役時代は167センチ、56キロ。右投げ右打ち。背番号23は阪神の永久欠番。75~77年、85~87年、97~98年と3期にわたり阪神監督。2期目の85年に、チームを初の日本一に導いた。89年から95年まで仏ナショナルチームの監督に就任。00年から日刊スポーツ客員評論家。92年殿堂入り。

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