阪急ブレーブスで通算284勝を記録して黄金期を築いた元中日監督・山田久志氏(74=日刊スポーツ評論家)が22日、今季限りで引退する中日・福留孝介外野手(45)を語った。

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プロ野球人生の第1歩を踏み出した中日で、福留が仕えた監督の1人が山田だった。それはスターダムをのし上がっていくターニングポイントになる出会いでもあった。

山田 福留はプロフェッショナルというにふさわしい男だったね。「潔く辞めます」と報告を受けたときは、やはり一抹の寂しさを覚えたよ。

01年オフ、ヘッド兼投手コーチの山田は、監督の星野仙一からその座を受け継いだ。3年目を終えて伸び悩んだ福留は、山田が打撃コーチに迎えた佐々木恭介(現・大和高田クラブ監督)の手腕によって変身する。

山田 仙さんの下でやっていたとき厳しい指導者が必要と思っていたんだ。おれが富士鉄釜石(後の新日鉄釜石)、恭介が新日鉄広畑出身だから“新日鉄”つながりで、現役時代も対戦した。指導力に定評があったし、厳しくしつけてくれると思ったんだね。

福留は95年ドラフトで佐々木監督だった近鉄からの1位指名を拒否。日本生命を経た3年後に中日に入団し、さらにその3年後の01年オフに中日打撃コーチに就く佐々木と運命の再会を果たす。

山田 ずっとマンツーマンの猛練習が続いた。孝介の練習に取り組む姿勢はプロ根性を感じたし、恭介も必死になってくれた。それに内野から外野へのコンバートも難しい決断だった。最初は孝介も受け入れがたい様子だったからね。

山田はその福留を遊撃から外野に転向させる。外野守備・走塁コーチの二宮至の進言で右翼手で起用。立浪和義を三塁、福留の後のショートに井端弘和、荒木雅博を二塁に据えた布陣は後に鉄壁の二遊間を築き、中日黄金期の礎になった。

山田 孝介は立浪の後のリーダー候補だったから絶対外せないと思った。サードも考えたが、サードは立浪のほうが膝、腰に負担が軽くなる。福留の打撃を生かすには外野のほうがよかった。二宮が「わたしが育てます」と言ってくれたのは助かったし、おれも踏ん切りがついた。福留のライトがはまって、内野陣も存分に鍛えることができた。

02年の福留は打率3割4分3厘を記録し、首位打者を争った巨人松井秀喜を制して初のタイトルを獲得する。

山田 孝介は言葉力をもってるし、人を引っ張ることもできる。タレントのような評論家でなく、野球でメシを食って、いずれまた指導者として野球界を盛り上げてくれると信じている。(敬称略)【取材・構成=寺尾博和編集委員】