村田兆治さんに、フォークボールの指南をしてもらおうとしたことがある。日刊スポーツの評論家だった時に、担当としてつかせてもらっていた。色紙に押された横綱の手形と私の手が同じ大きさだったことから、調子に乗って「僕もフォーク投げられますかね?」と聞いたのがきっかけだった。

まずボールを握らされた。人さし指と中指で挟むフォークの握り。「力を入れてみろ」と言われてぎゅっとする。兆治さんがそれを両手で力ずくでもぎ取る。「こんなのじゃダメだ。なにがあっても抜けないくらいじゃないと」と言って私の手を触る。「厚みが足りないな」と、さらなるダメ出しをされて終わった。試し投げまでいくことはできなかった。私が野球経験のない素人だとわかっていても手が抜けない人。軽々しくフォークが投げられるかもと言ったのを恥じるとともに、プロの技術に対するプライドの高さや厳しさを教えてもらった気がした。

「奪ってみろ」と言われてフォークの握りで差し出された兆治さんの手から、ボールを抜くことはできなかった。びくともしなかった。指先だけでなく、骨格からしっかりしていた。並んで歩いていて、何かの拍子に肩がぶつかっても、よろけるのはこちらの方。当時は60歳を過ぎたくらい。まだ全身からパワーがみなぎっていた。詳しい話を聞いていないので間違っているかもしれないが、先日の空港での事件を耳にした時も、兆治さんが自分の力の強さを把握できておらず、空港職員の人を驚かせてしまっただけなのではないか? としか思えなかった。

西武ドーム(当時)の打撃ケージ裏に名球会の重鎮が数名集まったことがあった。離れて見守っていたのだが、呼ばれて近くに行くと「こいつはいい記者になるから」と紹介された。「もう40歳を過ぎて、伸びしろはないんです」と、のど元まで出かかったが「人生先発完投」がモットーの兆治さんからしてみれば、40歳もまだ若造なんだろうと思い直した。

ライフワークだった離島の球児のことを常に気にかけていた。教え子が甲子園に出た時は本当にうれしそうだった。兆治さん、すみません。あれから10年以上たっても、いい記者にはなれていませんし、なれる気もしませんが、これから離島の球児たちが活躍するたびに、兆治さんのことを思います。【09~12年評論家担当=竹内智信】