大型連載「監督」の第8弾は、近鉄、オリックスを優勝に導いた仰木彬氏(05年12月逝去)をお届けします。

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監督として近鉄、日本ハムでパ・リーグを制覇した梨田昌孝が強い影響力を受けたのは、西本幸雄と仰木彬の2人だった。

「西本さんは野球に対して厳しい方で、ひたすら練習で鍛えられたし、近鉄の負け犬根性をたたき直した。でも仰木さんは“遊び心”があって、選手をがんじがらめにしない。きつくしたり、緩めたり、どこかで逃げ道をつくった」

正捕手として優勝を経験した梨田が1987年、現役を引退する意向を固めていたところに、仰木から電話が入った。

「ナシ、やめると聞いてるけど、来年はおれが監督をやることになったんや。もう1年頑張ってやってみんか?」

「いえ。もう手術を受けた肩もボロボロだし、アキレス鍵も痛めています。やめようと思っています」

最下位で終盤を戦う岡本伊三美の後任監督に、仰木が内定した直後だった。それが表面化する前、梨田は大阪市内の天王寺都ホテル(現都シティ大阪天王寺)で顔を突き合わせる。

「仰木さんから来年も選手として残って手伝ってほしいと言われた。力になれませんよと伝えたところ、(監督と選手間の)パイプ役としてやってほしいということだった」

梨田は仰木監督1年目の88年まで現役を続け、伝説の10・19ロッテ戦のダブルヘッダー第1試合では、同点の9回に希望をつなぐ勝ち越し打を放った。

01年に率いた梨田近鉄は「いてまえ打線」、09年の梨田日本ハムは打率、得点、防御率トップで投打にバランスを整えて優勝。梨田は経験者らしく「仰木さんはコーチ経験が監督になって生きたと思う」と分析する。

「キャッチャーが困ったとき、すぐに指示を出せない監督、コーチはダメだと思っている」

捕手梨田が、走者を塁上に置いた局面にベンチのほうを見ると、その役割にないはずの内野守備コーチの仰木からよく指示を出されたという。

「ぼくも同じで先読みするタイプ。例えばエンドランのケースで、こちらが外したいと思ってベンチを見ると、仰木さんから『外していい』『お前に任せる』といったサインが出たりした。『もう1度けん制を入れろ』とかで、ウエストして刺したことがあった」

本来は監督、ヘッドやバッテリーコーチらの役割だから、内野守備担当・仰木の“越権行為”だろう。仰木は梨田に「お前が自分でやったことにしておけよ」と耳打ちしたが、後で監督の関口清治にバレて怒られた。

仰木は近鉄だけで18シーズンにわたってコーチ業を務めた。監督に就いた際の本人は「まさかの大役」とためらったが、コーチとしてもゲームを動かした。すでに監督としての心構えと準備ができていたのかもしれない。(敬称略)

【寺尾博和編集委員】

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