大型連載「監督」の第8弾は、近鉄、オリックスを優勝に導いた仰木彬氏(05年12月逝去)をお届けします。野茂英雄、イチローらを育て上げ、いまだに語り継がれる「10・19」の名勝負を演じた名将。阪神・淡路大震災が起きた95年は「がんばろうKOBE」を旗印に戦った。“仰木マジック”を支えたコーチとも、時に対立しながら頂点に立った。

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1993年(平5)オフ、仰木を監督に招請したのはオリックスだった。1年前の92年まで近鉄で5シーズンにわたって指揮をとっていた。

オリックス1年目の94年は「鈴木一朗」から登録名変更した「イチロー」が大ブレークする。チームは2位だったが“仰木マジック”に拍車がかかった。

首脳陣も一新され、打撃コーチに新井宏昌を起用。投手コーチは阪急ブレーブスのエース、通算284勝を記録した山田久志が入閣する。もう1人の投手担当は山口高志だった。

“ポスト仰木”を約束されて就任した山田は阪急で優勝の味を知り尽くした男で、94~96年の3シーズン仕えた。

「仰木さんには発想と発信力がありました。近鉄では『10・19』で騒がれたけど、監督としてそこそこやるなという感じでした。オリックスでは温めていたものをすべてぶつけたように思います」

山口との“合作”を強調したのは、93年ドラフト1位・平井正史の育成だ。94年9月10日の近鉄戦(藤井寺)の9回、同点に追いつかれ、なおも無死満塁で新人平井を初登板させたが、大島公一の犠飛でサヨナラ負けを喫した。

「仰木さんは『なんで平井や?』という感じだったが、球種は少ないが、球威のあった平井の力を試したかった。高志と『こいつを2人で育てよう』と話した覚えがあります」

その平井は翌95年に15勝5敗27セーブで最優秀救援、最高勝率に輝き、新人王を獲得する急成長をみせた。その年から仰木と山田の間柄はギクシャクし出した。

「(多くの)ピッチャーを、まとめて使ってもらうということをするのが難しい監督だった。出来上がった投手でないと使ってもらえないという印象が強かったね」

“投手族”と“野手族”は通じ合うのに時間がかかる。投手コーチがメリハリをつけようとしても、コンディショニング、調整まで理解できない野手出身の監督は我慢の利かないことが多い。

「どの監督にもいえるが、ペナントをとりにいくチームは投手を酷使しがちです。その試合に勝ちたいから少々無理をしてでも勝ちにいく。『ちょっと勘弁してほしい』という投手コーチとは摩擦が生じがちで、仰木さんもそうでした」

投手コーチはうまくピッチャーの心理をくすぐりながら投げさせることも必要とする。95年4月21日ロッテ戦(千葉マリン)で、野田浩司がプロ野球新記録の19奪三振を記録した。

9回を終えて同点の状況に、山田は続投を進言した。野田本人もマウンドに立ちたがった。仰木はかたくなに受け入れなかった。延長10回から平井を投入してサヨナラ負けだった。

「仰木さんは投手の良しあしでなく、勝つために次の投手を用意して逃げ切りたがった。本人の記録よりチームの勝利を求めるのは間違いでないが、あの試合は野田の試合だった」

山田はロッテ佐々木朗希が2戦連続の「完全」を避けて降板したことを例に「なにを休ませる理由があるんだ」と投げかける。ただ仰木と大げんかしてもオリックスは強かった。(敬称略、つづく)【寺尾博和編集委員】

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