大型連載「監督」の第9弾は、今年90周年の巨人で9年連続リーグ優勝、9年連続日本一のV9を達成した川上哲治氏(13年10月28日逝去)を続載する。「打撃の神様」だった名選手、計11度のリーグ優勝を誇る名監督。戦前戦後の日本プロ野球の礎を築いたリーダーは人材育成に徹した。没後10年。その秘話を初公開される貴重な資料とともに追った。

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1958年(昭33)10月、巨人の実質的オーナーとなった務台光雄が、川上に宛てた手紙は、その功労をたたえている。

「特に貴君は何時も先頭に立って、苦境に悩む後輩選手を激励し、指導しつつ、あの(日本選手権試合の)緊迫した空気を緩和し…」

また、現役を退くことに「われわれの気持ちを暗くし、限りなく淋しくしたのは、試合の終了直後に発表された貴君の引退声明そのものであった。おそらくは全国の野球ファンも、同様の気持ちであったろうと察しられる。貴君の声明は誠に立派であった」と続く。

務台が川上に絶大の信頼を置いていたことは、手紙の端々から伝わってくる。「常々、戦の庭に立って、真剣勝負してきた」と敬意を示した務台は、川上の姿勢に「感動した一夜をいろいろ思い続けた」と感慨深げだった。

さらに「巨人軍の今日あるはいうまでもなく、日本の野球を今日の隆盛に導いた。心から感謝の意を表するのである」と記され、いかに川上が信頼を置かれていたかがわかる。

「どのように決定するかは、とくと相談の上、最善をつくさなければならないことであるが、よしんば、どのように決定しようとも、君が巨人軍とともに有ることには変わりはないであろう。(中略)自重自愛されて、球界の健全たる発展のために、あらゆる面で寄与されることを切望してやみません」

川上が引退から監督になるまでの経緯を振り返ったとき、“中興の祖”正力松太郎は早く監督にしたかったのだろう。監督に就いたとき、すでに正力は75歳、務台は64歳だった。

戦後の読売新聞は、正力の意向を受けた務台が大阪進出で地盤を築き、九州にも打って出た。特に巨人が1964年(昭39)の東京五輪後にV9を突き進むと、全国紙となって飛躍的に部数を伸ばしていく。

川上もまた、全国行脚するかのように“興行”を打ち、そして勝ち続けながら勇ましい姿を披露した。退任を考えたときも、務台から「そんなことで辞めるなんて君らしくないじゃないか。8回でも、10回でも、勝って、勝って、勝ちまくれ」と激励を受けている。川上巨人は営業戦略、部数拡大のための先兵役で“拡材”だったといえる。

川上 指導者も勉強しないといかんですよ。苦労しないと。いい師匠について修業する。自分の人生の羅針盤というか、立派な師匠を探すのは大事なことです。わたしは野球の面では正力松太郎さんという立派な師匠がいました。正力さんからは、当時日本一の禅師といわれた梶浦逸外老師を紹介していただいて、修業したのです。

読売新聞が発行部数1000万部を超えるのは、務台が死去し、渡辺恒雄(読売新聞グループ本社代表取締役主筆)が社長に就いた後の1994年(平6)5月だった。渡辺は社長と主筆を兼務した。1000万部時代の道筋をつけたのは、無敵の川上巨人だった。【寺尾博和】(つづく、敬称略)

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