<巨人6-4ヤクルト>◇21日◇東京ドーム

 原巨人がぶっちぎりVを決めた。優勝マジックを1としていた巨人はヤクルトを破り、3年ぶり34度目のセ・リーグ優勝に輝いた(1リーグ時代を含めると通算43度目)。監督として通算5度目のリーグ優勝を成し遂げた原辰徳監督(54)は、信頼する選手たちの手で、現役時代の背番号と同じ8度、宙に舞った。昨年11月からグラウンド外の騒動にたびたび見舞われながら、チームの結束と勝利に徹する姿勢を貫き、栄光を勝ち取った。

 走者アウトでゲームセット。歓喜の瞬間は、唐突にやってきた。原監督はベンチを出ると、ほほ笑みをたたえ、本拠地のファンに、帽子をとる。歓声のすべてを受け止め、マウンドで待つナインの輪に、ゆっくりと歩いた。たくましくなったナインの笑顔の中に進むと、3年ぶりの胴上げが始まった。現役時代の背番号、代名詞的数字でもある8度、宙に舞った。

 お立ち台では、観客席の1人1人に視線を向けた。本拠で決めた優勝に、感謝の気持ちがあふれ出た。「ここにいらっしゃるファンの皆さんの、まったく、おかげです。選手を、チームを代表して、一言御礼申し上げます。優勝おめでとうございます!」。ファンも含めて、一枚岩でつかんだ優勝と、叫んだ。

 絶対に負けられないシーズンだった。昨年11月11日、清武元GMの緊急会見に端を発した、グラウンド外の騒動の数々。攻撃のターゲットは、原監督と巨人そのものだった。外圧に屈しないチームの結束が必要だった。寛容な「仏」の一面と、厳格な「鬼」の一面。チーム力を強化、凝縮させるかのように、原監督は極端な二面性を使い分けた。

 始まりは「仏の許し」だった。宮崎キャンプ入り直前の1月29日、恩師の藤田元司・元巨人監督の七回忌が都内で営まれた。藤田元監督の義理の息子で、原監督の東海大時代の先輩でもある国際武道大監督・岩井美樹氏から、参列者の人選を委ねられた。原監督は「桑田も連れて行っていいですか」と、岩井氏に電話した。

 06年、桑田真澄氏は球団の了承を得ないまま、インターネットで退団を公表。退団時の言動が「藤田監督が存命なら決して許さない」と、遺族の怒りに触れた。桑田氏にとっても藤田元監督は大恩人だが、以来、桑田氏は藤田家と疎遠となっていた。当時の監督だった原監督が仲介となり、桑田氏は晴れて和解。岩井氏は「泥を塗られた辰徳が、間に入ってくれたんだ」と話す。

 墓前での記念撮影。原監督は、首脳陣を後ろにし、笑顔の桑田氏を中心に座らせた。和解を、巨人の仲間と祝福した格好だ。法要の会食では「みんな、今年はやるよ!」と、恩師の前で宣言。岩井氏は「あれは決起集会だった。みなが結束して勝つという覚悟があった」と振り返る。

 20年以上前の女性問題の暴露にも「仏の許し」で対応した。6月20日、「清武さんへ」と題した声明文を公表。最後に「まだ間に合います」と記した。チームを守るためにたどり着いた、心の境地だった。

 「こういうときこそ、悪いことは考えない。人の悪口を言わない。いいことだけを考えよう」。低迷していた4月のミーティングの言葉だ。仏のプラス思考をナインにも説いた。

 一方、戦い方は「鬼」だった。貯金が30を超えても、たとえ主軸でも、送りバントやスクイズを命じた。攻撃に転じる場面と見るや、早い回でも先発投手に代打を送った。優勝目前の17日には、小笠原を抹消し、亀井と入れ替えた。予告先発のないクライマックスシリーズの一塁手を決める最終テストが必要だった。通算2071安打の小笠原を、6試合起用しただけで2軍に落とすのは、苦しい決断だったはず。降格を伝えた16日、原監督は名古屋に向かう新幹線のホームで「みんなで戦っているから」と、自分に言い聞かせるように、うなずいた。決して、ぶれてはいけない。目の前の試合に勝つ。ただそれだけを求め、他はすべてを排除した1年だった。

 133試合目で出来上がったのは「全員で戦う」チーム。原監督はお立ち台で言った。「今年のチームは阿部キャプテン、投手は内海、この2人を中心に全員の力を1つにして戦ってきました。スタートこそつまずき、苦しみを味わい、しかし、全員で打破し、そして勢いを付けました。全員が1つになりました」。さらに「これからまた、ジャイアンツは成長していきます」と続けた。結束を示すゴールは、まだ先にある。【金子航】