力道山対デストロイヤー
力道山対デストロイヤー

日本プロレスの父、故力道山が死去して、12月15日で55年がたった。妻だった田中敬子さんは77歳、喜寿を迎えていた。没後55年を前に田中さんに話を聞いた。記者も、力道山の姿はテレビでしか見たことがない。敬子さんの話は、力道山の人間性や、考え方が聞けて、面白かった。

そもそも、敬子さんはなぜ、力道山と結婚したのか。敬子さんは、戦時中に満州に従軍し、火野葦平の小説「麦と兵隊」のモデルにもなった神奈川県警茅ケ崎署長・田中勝五郎氏の娘として横浜市に生まれた。市内の高校を卒業し、1年後に試験を受けて日本航空に入社。国際線のスチュワーデスとして勤務した。

そんな敬子さんの写真が、プロ野球元中日の故・森徹氏の母のぶさんの手に渡った。のぶさんは満州出身で、大相撲の巡業できた力道山と知り合い、かわいがっていた。その息子・森徹は、長嶋茂雄とホームラン競争も演じた中日の強打者で、中日入団時の保証人は力道山という間柄。のぶさんに写真を見せられた森氏が、すでに意中の人がいたため断ったことから、その写真は力道山へと渡る。

写真を見た力道山が一目ぼれ。力道山は、あらゆるつてを使って、敬子さん搭乗の日航機ロサンゼルス行きに乗り合わせ、米ロサンゼルスでは、搭乗員全員を高級レストランに招待。その後も、猛アタックをかけ、プロポーズに至ったという。当初は「仕事を続けたい」と悩んだ敬子さんも、力道山の人柄と周囲の勧めもあり、結婚を決断した。

力道山の事務所兼住居で、敬子さんが「お受けします」と返事をすると、力道山は黙って部屋から出ていってしまった。別の部屋に入っていった力道山を敬子さんが追い掛けていくと、真っ暗な部屋で、力道山は1人、うれし涙を流していたという。「私に断られたら、一生結婚はしないと決めていたようです」と敬子さん。2人は63年6月5日、ホテルオークラで盛大な結婚式を挙げた。

「結婚当初から主人は、プロレスラーではなく社長でした」と敬子さん。日本で初めて、プロレス会場を含めた自前のスポーツ複合施設「リキ・スポーツパレス」を渋谷に建設。相模湖にはゴルフ場、サーキット、レジャーランドをつくるため約40万坪の土地を購入していた。「レスラーが将来働ける場所をつくる。自分のとこの若い衆は一生面倒を見る」が力道山の口癖だったという。

敬子さんは力道山の試合を会場で見ることはなかった。「試合を見たい」というと「どこの社長夫人が、職場をうろうろするんだ」と拒否されたという。それでもテレビで、お客さんの反応をチェックするよう頼まれていた。力道山が亡くなったとき、敬子さんは妊娠7カ月。わが子の誕生を楽しみにしていた力道山は、出産のためにハワイの病院を予約。子どもの将来のため、英語を学ばせることも考えていたという。

「結婚して良かった。いい娘を授かり、人間はどうやって生きるべきかを学ばせてもらった。国籍のことが言われるけど、主人は地球人でした」と敬子さんはしみじみと話していた。

【桝田朗】

「力道山をしのぶ会」であいさつする田中敬子さん(2013年12月19日撮影)
「力道山をしのぶ会」であいさつする田中敬子さん(2013年12月19日撮影)