15年3月に89歳で亡くなった桂米朝さんは、戦後没落寸前だった上方落語を再興させた「四天王」の1人。落語芸能事務所「米朝事務所」もおこした。長男の落語家桂米団治(61)は、18年4月に社長に就任。父の五年祭で盛り上げようとした3年目の春、新型コロナウイルスの直撃を受けた。父を物差しの基準「メートル原器」と呼ぶ米団治に、社長として、落語家としてのコロナとの闘いを聞いた。

★社長就任から3年目

父がおこした事務所社長に就き3年目。「ふたつめの大きな仕事」が無利子無担保の貸し付けだった。

「3月9日に銀行に電話。10日に書類を整理して、翌朝8時15分に(貸し付けのため)並ぶと12番目。社長としてトイレの改装に続く仕事になりました」

今春、上方落語協会が会員にアンケートし、7割が「4月無収入」と答えた。「テレビ、ラジオのレギュラーがない人は収入ゼロ。ほとんどの者は3カ月以上、その状況でした」。

3月中に数千万円を受け取り、2回目も借りた。「でも、いずれ返さな。経営は大丈夫か」。今なお続く悩み。一方で、芸人として考えれば逆だったとも。

「仕事行かんでええと、ホッとした。マネジャーも土日返上で働いて、代休もない。僕自身も『あ、休めた。仕事ないわ』って」

ただ、2カ月も過ぎれば不安が強まった。

「もう以前のようには戻らないと私は考えてるんです。米朝事務所っていう肩書とかプライドも関係のない時代。個々が自宅で動画撮影をして、発信したり」

三谷幸喜氏の「12人の優しい日本人」を動画で見て「はなし家こそ1人でやれる」と奮い立った。兄弟子桂ざこば席亭の「動楽亭」で、一部観客を入れ「リモート寄席」を始めた。

「落語家は笑いがないと調子に乗っていけない。少しでもお客さんを入れて、皆に遠くから見ていただこうと。ただ、リモートで落語聞いてると、つい離れたりとかするんです」

そして、上方落語の原点へ立ち返ることができた。

「曲独楽(ごま)、三味線が入れば(集中力は)続く。上方は大道芸で始まったと言われてます。神社仏閣の境内で見台たたいて、三味線はやして、太鼓打って、お客さんを集めた」

落語は2席。トークや楽器をはさんだ。「米朝チャンネル」も本格稼働。

「コロナがなければやらかったことのひとつ。生が一番やけれども、リモートで今までなかった手段を探れるんじゃないか。落語ファンなんて、人口比1%あるかないか。間口を広げる意味で効果があると思う」

★落語のメートル原器

持ち前のポジティブ志向で、コロナ禍を「新規ファン層の開拓」ととらえる。徴兵経験もある父が戦ってきた時代とは違う闘い。

「ウイルスは目に見えない。建物は残り、車は走ってる。焼け野原になったわけじゃないから、変わったことに気づきにくい」

「米朝チャンネル」に「米朝一門のうた」をアップ。小米朝を名乗っていた時代、定期寄席の企画で作った。「ある年『今年は宝塚歌劇でいこう』と」。朗らかなメロディー、リズム、特徴的なリフレイン…宝塚歌劇風の曲。当時、米団治は観劇によく通っていた。

「前半は落語会、後半はレビュー仕立てに。先代の歌之助さんらが白鳥の湖やったり。最後にシャンシャン持って、フィナーレ。『米朝師匠、米朝師匠~』で米朝師匠がおりてきて…」

ところが、当日の会場にいた米朝さんは「なんでそんな恥ずかしいことせなあかんねん」と出演拒否。結果、先輩から「おまえがこんなん作るからや」と「皆にボロクソ言われて、お蔵入りになってた」そうだ。

幻の楽曲が復活したのも「コロナのおかげ」。米団治は後に、趣味のオペラと落語を融合させた「おぺらくご」を生み出している。

「稽古は苦しくても、本番は楽しまないと芸人やない」。SNS上で広がりを見せ「何がヒットするやわからん」と笑う。偉大な父について「メートル原器のようなもの」と今、思う。

「落語というスタイルをしっかり構築してくださったから今がある。桂米朝は落語において『1メートルの長さはこれですよ』という基準。クラシック音楽でいうたらベートーベン。言い換えれば教科書です。米朝が基軸。全集も、東西ほとんどの落語家が読んでる」

米団治自身も「基本を米朝が作ったから、ちょっとここは-って、アレンジしてやらせてもらってる。型があるから破れるんです」と痛感する日々だ。

★「米朝チャンネル」で

父としては「芸の虫。どうしょうもない。あまのじゃく」と振り返る。「人が期待する答えは返さない。でも、その反骨精神が米朝落語を作った」。米朝一門の弟子は住み込みで育った。故月亭可朝さん、故桂枝雀さん、桂ざこば…。

「長男やけれど、ずっとお兄ちゃんがいた。僕自身は子どもの頃、怒られたこともない。ただ稽古ではぼやかれ、刻みたばこを吸うキセルで『なんべん言うたら分かるんじゃ!』とかんしゃくを…。たいがいの弟子はこれ、経験してます」

米朝さんも弟子を実子同然に扱った。酒好きで誰にでも飲ませ、内弟子時代から喫煙も許可。絹子夫人がたばこ嫌いで、弟子らには「分からんように吸い」と助言した。今なお、結束力は強い。その一門きっての異端児が可朝さんだった。

「米朝は落語には厳しいけれども、懐は広くて。自分から破門とか言うたことない。気に入らなければ絶対に弟子にとらないけど」

可朝さんは先代林家染丸さんの弟子だったが、米朝さんに「こいつ、わしの手に負えへん」と頼んだ。

「基準は『空気』。私とやっていけるか-いうね。一生売れへんかもわかれへん。非行に走っても、親としての責任はとらなあかん。そう、僕も思ってます」

米団治にも流れる米朝イズム。襲名後に余裕が生まれ、弟子をとった。「ちょっと、落ち着きが出てきたかな。今でも、しゃべるテンポは速いけど」と笑う。

今回、事務所のデジタル化にあたり、吉弥の一番弟子、弥太郎を中心にすえた。「落語でもまた、彼は一段上がるはず」と期待。米団治自身は今年4月、やっとiPadを使い始めた。

「ガラケーの自分が、今回の人生においてデジタル化されるなんて、夢にも思わなかった。(短い自己紹介の)初ツイートに23分かかりました(笑い)」

ただ順応性は高く、仕事も新しい生活様式との融合を進める。寄席の客席は格子状で、採算はとれない。

「リモートの視聴者数を増やすしかない。(SNSを駆使し)草の根運動的に広げる。動楽亭でも演者が発信した日は(客が)増える。これからは、米朝事務所が放送局になっていく」

“はなし家社長”は、新たな経営手段を模索し、新時代へ立ち向かう。【村上久美子】

○…3月に予定していた功績をしのぶ「五年祭」興行「米朝まつり」は、19~21日に大阪・朝日生命ホール、30日にサンケイホールブリーゼで行われる。今月24~30日、天満天神繁昌亭でも「五年祭特別興行」を予定。米団治の息子は高校教師だが、繁昌亭には顔を出す予定という。かつて3世代で舞台に立ったこともあるが、教職に就いた。「(落語家への意向を)ぜひ直撃してください」と言い、笑った。

◆桂米団治(かつら・よねだんじ)

本名・中川明。1958年(昭33)12月20日、大阪市生まれ。関学大卒。78年8月、父に入門し小米朝を名乗る。08年、父の師匠名を襲名。「5代目米団治」は一門事実上の止め名。父譲りの二枚目でNHK「てるてる家族」や、映画、舞台にも出演。クラシック好きで、オペラと落語の融合「おぺらくご」を確立。持ちネタは「稽古屋」「はてなの茶碗」「親子茶屋」「七段目」「百年目」「地獄八景亡者戯」など。

(2020年8月9日本紙掲載)