タレント小堺一機(69)が、10月30、31日に東京・丸の内のコットンクラブで「Kazuki Kosakai Sing,Sing,Sing&Talk!!」を開催する。スタンダードナンバーから昭和歌謡、オリジナルソングまで歌って、まねして、タップを踏んで笑わせる70分間を2日間で4公演。1977年(昭52)にTBS「ぎんざNOW!」の素人コメディアン道場第17代チャンピオンに輝いてからの軌跡、そしてこの世界へと導いてくれた“3人の師匠”について聞いた。【小谷野俊哉】
★笑いは絶対欲しい
去年に続いて、丸の内のシックな会場で食事をしてからショーを行う。
「昔は好き勝手に3時間、4時間とやってたから、70分できちんと収めるのは結構難しいですね。オモシロ音楽で歌って、ネタっぽいしゃべりを入れて、笑ってもらう。トークの周りの面白いものがタップだったり、歌だったりとか。笑いは絶対に欲しいというのはあるんですね」
歌って、踊って、笑わせるエンターテインメント。
「全部で10曲くらい。メドレーでいろいろな曲を歌って、フルで歌うのは5曲ぐらい。ダウンタウンブギウギバンドの『港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ』で、どんどんどんどんものまねを。田中邦衛さん、勝新太郎さん、堺正章さん…10人ぐらいやりましょうかと。邦衛さんの口調で『ちょっと前なら…』と。これは絶対、鉄板でやりましょうと。あとは自分の歌もありまして、タップとか踏みたいんで今年は『ザ・レディ・イズ・ア・トランプ』ですけど、スタンダードみたいなのもやります」
いわゆるZ世代に向けた歌もある。
「沢田研二さんの『時の過ぎゆくままに』で ♪あなたはすっかり疲れてしまい~ って歌い出してね。今の人は、イントロも待てないんですもんね。五輪真弓さんの『恋人よ』って40秒ぐらいあるんです。沢田さんの『勝手にしやがれ』ってね、イントロがある意味売りでもあるわけじゃないですか。それを逆手に取ってね。やっぱりライブが圧倒的にいいですよね。コロナ禍で、みんな実感したんですね。やっぱり人間はそういうものが欲しいんですよ」
テレビやラジオのトークとはまたひと味違う、しゃれた芸だ。
「僕が子供の時はダニー・ケイを父親が見てたから。『この人は何』って言ってたら『アメリカのコメディアンなんだ』ってんで。その頃は僕もコメディアンというのは芸人かと思ってるから。でも、アメリカだからトークがあったり、ゲストの人が歌手なら一緒に歌うし、タップがあって、そういうのがすごいなと思ったんです。日本だと堺(正章)さんが、そういう方面の突破口になったと思うんですけどね。昔はあったんですよね。『シャボン玉ホリデー』とか。クレイジーキャッツさんというのは、洗練されてましたよね。元々、ジャズですからね」
★「ぎんざNOW!」
77年5月にTBSの夕方の人気番組「ぎんざNOW!」の素人コメディアン道場で第17代王者に輝いた。専大3年に在学中。卒業して俳優勝新太郎が主宰する「勝アカデミー」に1期生として入学した。
「純粋に勉強をしたい思いもあったけど、チャンピオンになった時が大学3年だったんで就職とかがね。小学生の時に児童合唱団でテレビに出て、芸能界は厳しいっていうのを見てたんで。でも『ぎんざNOW!』に出ちゃったら、やっぱり好きだったものに火がついちゃった。ただ、やっぱり何もないわけですよ。本屋で雑誌『明星』を読んでたら『勝アカデミー』の話が出てた。勝さんだと面白そうだし、文学座、俳優座っていう柄じゃないから。こういうところに入って勉強できたらいいなと」
勝アカデミーの講師陣がすごかった。
「もちろん勝さんもいて、森繁久彌さん、津川雅彦さん、担任が岸田森さんですから。すごい濃いんですけど、大学5年目みたいな感じで。卒業と同時に浅井企画に入りました」
勝アカデミーに通いながら、日本テレビ系「紅白歌のベストテン」の前説の仕事をこなしていた。
「横で司会の堺正章さんを毎週、見ていました。教えを受けた順番から言えば、堺さんに見せてもらって、勝さんにいろんなものを教わって、そして浅井企画に入って大将(萩本欽一)に出会いました」
82年にテレビ朝日系「欽ちゃんのどこまでやるの!」に起用された。
「僕は関根(勤)さんより1年前に入ってたんですが、緊張してセリフが言えなかったりして役がなくなった。じゃあ、お前ら2人でやっていくかって『クロ子とグレ子』に。そこから認知度が上がりました。『欽どこ』自体がすごい視聴率の番組で、毎週30%以上、40%近く取ってましたから」
★“昼の顔”を31年半
84年10月に「ライオンのいただきます」の司会に抜てき。「いただきます2」、「ごきげんよう」と16年3月に終了するまで、31年半にわたり“昼の顔”を務めた。
「『欽どこ』に入れてもらった2年後、28歳でした。塩沢ときさん、中山あい子さんとかのおば様たちがブレークしましたが、あの頃は60歳前後で、今の僕よりも若かった。その後のサイコロトークは放送作家の鶴間政行さんのアイデア。それまでは『こういうことをお聞きします』という感じだったのに、その逆をやった。僕は、内容を全然知らないです。毎日毎日、生放送で何が飛んで来るか分からないから大変でした」
役に立ったのが、師匠の萩本欽一の教えだ。
「でも、『欽どこ』もリハーサルをして、本番の日に『昨日までのはなし』っていうことをやってたんで。だから着地点をこっちで決めるんじゃなくて、ゲストが行きたいほうにお前がついて行け、みたいなことで。大将は『人の話を聞け、動きを見ろ』って」
萩本は下ネタ嫌いで有名だ。
「多分、みんな誤解してて『俺はやんないだけだ』って。僕らに下ネタやるなとは言わなかったけど『下ネタは素人でもウケるから俺はやらない』って。大将なりの矜持(きょうじ)があるわけです。『笑いなんて、差別と下ネタが一番簡単なんだよ』と。僕はテレビの一番いい時代を見て育って、一番いい時代に出させてもらった。今はがんじがらめだけど、規制がある中で笑いを生み出してくっていうのがないのが、ちょっと寂しいですね」
先人から受け継いだ思いを芸として結実させている。
▼フジテレビ三宅恵介エグゼグティブディレクター(76)
「ライオンのいただきます」が始まった時に「オバさんをゲストで」となりました。それなら司会は若い男の人で器用な人がいいとなって、小堺さんに。面白かったし、なによりもスケジュールが空いていた(笑い)。84年10月に始まって、16年(平28)3月に「ごきげんよう」がおわるまで31年半も続きました。あんなに長く続くとは思いませんでしたが、基礎がしっかりしていて、今も崩れない。昨今、テレビは、すごく規制が厳しくなってしまって何もできないようになってしまっています。だからこそ、小堺さんには、その中で笑いを生み出し続けて行ってほしいですね。
◆小堺一機(こさかい・かずき)
1956年(昭31)1月3日、千葉県生まれ。79年「勝アカデミー」入学、日本テレビ系「紅白歌のベストテン」前説。80~81年日テレ「紅白歌のベストテン」、81~86年日テレ「ザ・トップテン」。84年10月~90年12月フジテレビ「ライオンのいただきます/-2」司会。91年1月~16年3月には同局「ライオンのごきげんよう」。81~09、20年TBSラジオ「コサキン」なども。血液型A。







