俳優佐藤二朗さん(52)が18日にツイッターに投稿したつぶやきです。「演技派俳優」という表現が「いかに俳優をバカにした表現か」と憤り、話題になりました。

俳優佐藤二朗(19年4月)
俳優佐藤二朗(19年4月)

勝手にカテゴライズをするなという意味なのか、「頭痛が痛い」「馬から落馬」みたいな重複表現をするなという意味なのか分かりかねますが、「演技派俳優」という表現への違和感に関しては共感できるので、俳優側からの問題提起を興味深く読みました。

演技力は、スポーツや受験偏差値のように数値化できるものではなく、あくまでも見る人の主観です。「演技派かどうかは見た人が決めること。記者の主観で肩書に変な装飾を足すな」。入社以来、記者研修や先輩から何度も言われてきた身としては、「演技派俳優」「本格派俳優」「実力派俳優」「個性派俳優」「正統派俳優」「カメレオン俳優」など、送り手の主観まみれの肩書がカジュアルに市民権を得ていて面食らいます。

昔、「世界的スーパースター、マイケル・ジャクソン」と書いてデスクにキレられていた同僚がいたなあと懐かしく思い出しました。確かに世界的スーパースター以外の何者でもないのですが、それは読者が決めること。スケールの大きい活躍を読めば世界的スーパースターであることは伝わるのだから、肩書は堂々と「歌手マイケル・ジャクソン」でいいのだということです。

「演技派俳優」も同じ。演技派とか大根とか、こちらでカテゴライズするのは、読者にも俳優本人にも大きなお世話な気がします。記事の中で演技派俳優たる評判や実績について触れることは大いにありますが、それをパブリックな肩書として認定する立場にはありません。しかしながら、最近は映画やドラマのイベントなどでも、「実力派俳優の皆さんです!」みたいな紹介は日常の風景。せめて数字的根拠がある「人気俳優」「売れっ子俳優」などの方がしっくりくるのにとも感じます。

「歌舞伎俳優」「演歌歌手」など、ジャンルを示すものを除けば、肩書の前にごちゃごちゃと装飾が必要なのは、無名の新人、一部のコミュニティーの有名人、海外のエンタメなど、一般的には「誰?」という存在の人という印象です。「○○のCMで話題の新人女優○○」とか、「○人組アイドルグループ○○のメンバーで、先ごろ映画○○で女優デビューした○○」とか、何者か分からないと記事を読んでもらえないので長くなりがちです。

「俳優」だけで通じ、演技力の有無など受け手にあれこれイメージしてもらえるのは、それだけですごいことなんですよね。「演技派」などと注釈を足されているうちはまだまだという感じで、逆に失礼というか。「バカにした表現」という佐藤さんの訴えもよく分かるのです。

もはや「長嶋茂雄」みたいに、名前だけでいけてしまう人のすごさをあらためて実感するばかりです。

【梅田恵子】(ニッカンスポーツ・コム/芸能記者コラム「梅ちゃんねる」)