3度の脳梗塞を乗り越え、上方唯一の林家一門を束ねる4代目林家染丸(69)が14日、大阪市北区の天満天神繁昌亭で、戦後上方落語の“恩人”三味線方を追善する興行の取材会に出席した。

興行は、70年に86歳で亡くなった寄席ばやし三味線方、林家とみさんの50回忌追善で、4月1~7日に繁昌亭昼席で連続上演。染丸は全日程であいさつに出る。「怖い(人だった)」

12年以降、脳梗塞からのリハビリを続けながら舞台に出る染丸は、短い言葉ながら強い思いを込めて振り返った。

とみさんは1883年(明16)の生まれで、小学時代から江戸唄、端唄、義太夫を習い、26歳からはやし場に座った。当代からは先々代にあたる2代目染丸と結婚。戦後、没落寸前だった上方落語を6代目笑福亭松鶴、桂米朝、3代目桂春団治、5代目桂文枝(いずれも故人)の「四天王」とともに復興させた功労者だった。

上方といえば、華やかな音曲入りで落語を演じるのが、江戸と違っての個性。「はめもの」と呼ばれるはやし方が、上方落語を象徴してきた。染丸によると、その「はめもの」を戦後、知る人はなく、とみさんが復興させ、上方独特の「はめもの落語」を定着させた。

落語が下手な若手には、本来音を入れるべき場面で音を入れない厳しさでも知られ、染丸は「音の響きが違う。ええ音やった」。戦後の上方はめもの落語の第一人者と称された先代の5代目文枝さんも「わしらは虫けらみたいなもんやった」と述懐している。

染丸は先代に67年に入門。とみさんは69年に引退し、70年に亡くなっており、仕事より「小間使い」としてのつきあいだった。

お使いを頼まれても、入門直後で、しきたりも、先輩の呼び名も分からず、適当に返し、怒られたことも多々あった。ただ、このとみさんの影響で、染丸は自らも三味線を弾き、三味線方の門弟も多く抱え、ひらがなの「はやしや」を名乗らせて、現在も上方のはやし方を支えている。

染丸は「(はめものが)好きなので、おはやしさんとのあうんの呼吸がいい。やった者しか分からないが、はなしと音が合うと楽しくて、うれしいものです」。上方の伝統を現代につないできたとの自負もある。

とみさんの音源は多く残っていることから、染丸は「今のおはやしさんも、それを聞いて勉強してほしい」と話していた。