ロック歌手で俳優の内田裕也さん(本名・雄也)が17日午前5時33分、肺炎のため、都内の病院で死去した。79歳だった。容体が急変したため、家族は看とることができなかった。妻で女優の樹木希林さん(享年75)に先立たれてから6カ月。ロック界のカリスマも、天寿を全うし希林さんの元へと旅立った。葬儀・告別式は近親者で行い、後日お別れの会が営まれる。

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肺炎のため入院中だった内田さんは亡くなる前日16日、見舞いに訪れた家族と過ごし、好物のオムライスを食べるなど元気だったという。だが、その夜に容体が急変、そのまま帰らぬ人となった。

都内の自宅マンションでは前夜から娘のエッセイスト内田也哉子さん(43)が付き添い、この日午後3時前には孫のモデルUTA(21=本名・雅樂)が駆けつけた。

73年10月に結婚した女優樹木希林さんとは40年あまり別居し、家族とも疎遠になっていたが、年1回の家族写真撮影では顔を合わせていた。昨年9月に希林さんが亡くなり、その葬儀・告別式を通じて、くしくも残された家族との絆を深めることになった。

兵庫県に生まれ、堺市で育った内田さんは中学でラグビー部、高校で野球部に所属するスポーツ青年だったが、エルビス・プレスリーに憧れてドロップアウト。60年を超える「ロックンロール人生」がスタートする。

同い年の佐川満男と結成したロカビリーバンドを皮切りに、日劇ウエスタンカーニバルにも出場。60年代中頃からロック色を強め、66年のビートルズ来日公演では前座を務めた。

年末恒例となった「ニューイヤーズ・ワールドロックフェスティバル」を主催するなど、プロデューサーとしての能力も発揮し、大阪のジャズ喫茶で、後のグループサウンズ・ブームをけん引する沢田研二(70)を発掘したことで知られる。

個性派俳優としても活躍したが、映画への傾倒は夫のジョン・レノンとともに交流のあったオノ・ヨーコさん(86)の言葉への発奮がきっかけだったことを明かしている。「酒ばかり飲んで、暴力ふるって、何も残していない」と言われた内田さんは「絶対に見返してやる」と「十階のモスキート」(83年、崔洋一監督)をプロデュース。オノさんの住むニューヨークで同作のプレミア上映が行われた時は「リベンジした気分だった」と振り返った。

レノンを始め、海外ミュージシャンとの交流も多く、流ちょうに英語を話した。「戦場のメリークリスマス」(83年、大島渚監督)に出演したときは、突然あてがわれた英語のセリフを即興的にこなしたこともあった。

規格外の行動は時としてトラブルにつながった。77年には大麻取締法違反(起訴猶予処分)。83年には銃刀法違反。11年には交際中の女性から別れ話をされた際に女性を脅迫し、女性の自宅に侵入した容疑で計3度の逮捕歴がある。

良くもあしくも、内田さんにとってはどれも真っすぐに「ロックンロール」な行動。言動の端々に妻希林さんの言う「ひとかけらの純なもの」を感じさせる人だった。

◆内田裕也(うちだ・ゆうや)本名・雄也。1939年(昭14)11月17日、兵庫県生まれ。59年、日劇ウエスタンカーニバルで本格デビュー。ザ・フラワーズのボーカルやフラワー・トラベリング・バンドなどのプロデュース活動を幅広く行った。主催した「ニューイヤーズ・ワールド・ロックフェスティバル」は73年から42回を数えた。俳優としては63年の「素晴らしい悪女」を皮切りに「エレキの若大将」(65年)などに出演。86年の「コミック雑誌なんかいらない」でキネマ旬報主演男優賞などに輝いた。91年には東京都知事選に立候補。11年には被災地宮城県石巻市で炊きだしを行った。「ロケンロール」「シェケナベイビー」が口ぐせ。