俳優、司会者として活躍した柳生博(やぎゅう・ひろし)さんが16日午前9時40分、老衰のため山梨・北杜市の自宅で亡くなった。85歳だった。21日、柳生さんがオーナーを務める「八ケ岳倶楽部」のフェイスブックで、次男の宗助氏が報告。20日に家族葬を執り行い、後日お別れの会を開く予定。温和なキャラクターと渋い声でお茶の間に親しまれ、テレビ朝日系「100万円クイズハンター」では「ハンターチャンス!」の掛け声でおなじみに。「日本野鳥の会」で名誉会長を務めるなど自然保護活動にも精力的に取り組んだ。

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柳生さんが、大好きな自然に囲まれながら最期を迎えていた。宗助氏は「悲しいお知らせをしなくてはいけません」と切り出し、父の死を報告。「病院には入院せず、大好きな八ヶ岳の森に囲まれ、家族と倶楽部スタッフ、そして在宅医療の皆さまに見守られて、穏やかな最期でした。皆様には生前、本当にお世話になり、また大変親しくして頂き、誠にありがとうございました。心から感謝申し上げます」とつづった。柳生さんが開いたレストランとギャラリーが併設された「八ヶ岳倶楽部」によると、今年に入ってからも柳生さんは元気な様子で同店にも姿を見せていたという。関係者によると、亡くなる1週間ほど前から、徐々に衰弱していったという。

柳生さんは東京商船大(現東京海洋大)を中退後、俳優座養成所を経て、1961年(昭36)に映画「あれが港の灯だ」でデビュー。72年に日本テレビ系ドラマ「飛び出せ!青春」で穂積隆信さんとの“腰巾着コンビ”で注目されると、77年にはNHK連続テレビ小説「いちばん星」で野口雨情役を演じて全国区になり、数々の作品で味のある脇役として活躍した。

また、渋さを含んだ声で、司会としても活躍した。81年から、テレビ朝日系「100万円クイズハンター」で司会。一般の解答者たちのクイズバトルを見事に仕切り、「ハンターチャンス!」の決めせりふで人気を集めた。NHK「生きもの地球紀行」などでナレーションも担当。フジテレビ系「平成教育委員会」ではレギュラー解答者を務めるなど、温和なキャラクターでお茶の間に親しまれた。

自然を愛した人だった。76年から山梨に居を構えると、八ケ岳山麓で雑木林を育てた。00年頃からは俳優活動をセーブして、04年からは「日本野鳥の会」会長(19年からは名誉会長)、「コウノトリファンクラブ」の会長を務めるなど、自然保護活動に尽力してきた。19年にはテレビ朝日系ドラマ「やすらぎの刻~道」に出演し、20年ぶりの連ドラ出演で話題になった。

15年には、長男の真吾さんを亡くしていた。宗助氏は「真吾が愛したカタクリを眺めながら、最期の日々を過ごせたこと、幸せだったと思います。本当に皆さまにお世話になり、ありがとうございました。父は倶楽部の森をこれからも見守ってくれてると思います」とつづった。

◆柳生博(やぎゅう・ひろし) 1937年(昭12)1月7日生まれ、茨城県出身。俳優座養成所を経て1961年に映画「あれが港の灯だ」でデビュー。「水戸黄門」や「太陽にほえろ」など数々のドラマにも出演。ジェームズ・スチュアートなどの洋画吹き替えでも活躍し、NHK動物番組「生きもの地球紀行」のナレーションも担当した。妻は女優としても活躍した二階堂有希子さん。175センチ、65キロ。

◆100万円クイズハンター テレビ朝日系で81年9月から93年10月の平日午前に放送。柳生さんが司会、若林真弓、藤岡久美子らがアシスタントを務めた。前半は4組の解答者が20枚のパネルに分けられたジャンルを選び、ハンマーによる早押しで解答。正解者にはパネルに割り振られた商品と金額が加算される。後半戦「ハンターチャンス」では、正解者が他の解答者の商品を1つ奪うことができる。その際、商品の移動を示すライトが解答者席の間を移動するのも名物。前半でパネルの1枚に隠された「ゴールデンハンマー」を獲得した解答者は1問、独占解答権が得られる。最終的に金額が多かったチームが、ハワイ旅行に3択で挑戦できるチャレンジゲームに進出する。2012年には特番として立川志の輔の司会で復活した。