1923年(大12)9月1日に発生した関東大震災後の混乱の中、発生した実際の事件を題材にした映画「福田村事件」(9月1日公開)の森達也監督(67)と木竜麻生(29)が21日、都内の日本外国特派員協会で会見を開いた。会見の中で、森監督は人間が一定の条件下では残虐になり得ると指摘。また、戦争の記念日を被害を受けた日ばかりにしたことで、日本人は加害者意識を持たなくなったと、日本の戦後の在り方を批判した。

「福田村事件」は、関東大震災から5日後、千葉県福田村で行商団9人が地震後の混乱の中で殺された、実際の虐殺事件が題材。関東大震災から100年となる23年に、なぜ行商団の9人は殺されたのか、なぜ村人たちは殺したのか…歴史の闇に葬られていた実話を基に、ドキュメンタリー監督、作家の森監督が、自身初の劇映画として作り上げた。

質疑応答の中で、なぜ集団になると人間は残虐なことに手を染めるのか? などと質問が出た。森監督は、オウム真理教を信者の側から描いた1998年(平10)のドキュメンタリー映画「A」撮影当時を振り返り「最初、オウムの施設に入った時、信者達が皆、非常に善良で穏やかで優しいことにビックリした」と語った。そして「メディアが、とにかく(オウム真理教を)凶暴で冷酷で危険な集団だと毎日、報じていた。(取材した信者は)全然、危険ではなかったが多分、彼らも指示されればサリンを撒いていたと思う」と続けた。

その上で「その時、善と悪は何なんだろうと考えた。ポーランドのアウシュビッツ、ドイツのザクセンハウゼン、カンボジアのキリングフィールドといった、虐殺の跡地を訪ねた。やっぱり思うことは同じで、とても穏やかな普通の人たちが、ある条件の下では、とても残虐な振る舞いをする。多分、人間ってそういう存在だと思う」と人間を評した。さらに「キーワードは集団、そして不安と恐怖…この2つがそろった時に、人は変わってしまう。1人1人は同じままでも、集団として変わってしまう。特に日本は、そういう歴史を、ずっと繰り返しているが、その歴史を最近、軽視する傾向が、とても強い。そうなれば、それを映画で見せるしかない」と映画を製作した意図を説明した。

製作に当たって、妨害はなかったか? と質問が出た。森監督は「具体的な妨害はないんですけど、最初に僕が事件を知ったのは22年前。テレビの仕事をしていたので、テレビで何とか出来ないかと、いろいろ回ったが、どこの局も採用してくれなかった。抗議が来るから面倒くさい…というのも、あるんだと思う」と、テレビ番組としては実現しなかったと明かした。その上で「数年前、幾つか日本の大手の映画会社を回ったけれど、ちょっと無理ですと…映画に出来なかった。要するに、こんな映画を作っても多分、日本人は誰も見てくれないという気持ち。そういう雰囲気は、日本全体に広がっているのではないか?」と語った。

森監督は、質疑応答の終盤で「僕は戦後の在り方が、大きな間違いを犯したと思っています」と指摘した。「日本の戦争のメモリアルデーは8月6、9、15日…つまり広島、長崎(への原爆投下)と終戦です。あとは沖縄と東京大空襲…全部、被害の記憶で、加害のメモリアルが全然ない」と強調した。一方で、ドイツ人に聞いたというドイツにおける戦争のメモリアルデーについても言及。「1月27日のアウシュビッツ解放と、同30日のヒトラー組閣の日。日本とは真逆だと思った。つまり、ドイツは加害、なぜ自分たちはヒトラー、ナチスを支持したのか…それがメモリアルとして、ずっと戦後、ずっと考えている」と日本との違いを指摘し、比較した。

その上で「日本は、なぜ自分たちは、こんなにひどい目に遭ったのか、そして戦争の始まりではなく、終わりを起点にしてしまったから、戦後復興が物語になってしまう。メディアも、教育も、政府も、その流れに沿ってしまった」と指摘。「結果として、自分たちの加害を認めないから、あんな残虐なことをする人たちは、けだものだと思ってしまう。だから朝鮮人虐殺、南京虐殺、従軍慰安婦はなかった、存在しない、強制徴用はしない、などと、より否定したくなる。けだものじゃないんですよ…人間というのは、そういう存在なんだと認識を持てずに(戦後)78年、たってしまった。それが今の日本だと思っています」と訴えた。

◆「福田村事件」 1923年(大12)澤田智一(井浦新)は、教師をしていた日本統治下の京城(現ソウル)を離れ、妻の静子(田中麗奈)と共に故郷の福田村に帰ってくる。澤田は日本軍が朝鮮で犯した、虐殺事件の目撃者だったが、妻の静子にもその事実を隠していた。その同じ頃、沼部新助(永山瑛太)率いる行商団一行が、関東地方を目指して香川を出発したが、9月1日に関東地方を襲った大地震によって、多くの人々はなすすべもなく、流言飛語が飛び交う中で、大混乱に陥る。そして同6日。沼部率いる行商団15名は、次なる行商の地に向かうため利根川の渡し場に向かうが、沼部と渡し守(東出昌大)の小さな口論に端を発した行き違いが、興奮した村民の集団心理に火をつけ、阿鼻(あび)叫喚のなかで、後に歴史に葬られる大虐殺を引き起こしてしまう。