「イモトのWiFi」「にしたんクリニック」で知られる西村誠司エクスコムグローバル社長(55)の半生はまるで小説のように示唆に富んでいる。過酷だった幼少時代、死と向き合った大学時代、そして今、不妊治療で新しい命に向き合っている。ジェットコースターを地で行く起業家に聞いた。【相原斎】
■過酷な家庭環境
幼稚園に通っていた頃に父が大病に倒れ、母は心労からアルコール依存となる。家庭環境は過酷だった。
「ひどかったな、と思ったのは大人になって振り返るようになってからですね。当時はそれが当たり前でした。小学2年の頃から母は重度のアルコール依存になり、ふろ場で自殺未遂。それを僕が発見して警察を呼ぶことになるのですが、不思議と冷静でした。荒れた日々は続き、母はよく石で窓ガラスを割りました。でも誰よりも優しい一面もあったんです。飲んでいないときは明るくて妙におせっかいで。酒癖の悪い人や社会不適合と言われる人に寛容でいられるのは、そのおかげかもしれません」
環境を苦にした意識はない。高校では「ラグビーを一生懸命頑張った」。大学では「青春を謳歌(おうか)した」実感がある。
海外への漠然とした憧れから大学時代には英会話学校に通い、バイト講師の米国人と親しくなった。彼から薦められたジェフリー・アーチャーの「ケインとアベル」がその後の方向を決めた。21歳だった。
「過酷な環境で育った人間が腕1本でのし上がっていく姿に自然と自分を重ねていたんです。起業家への憧れが生まれました。友人とルームシェアしていたアメリカ人たちとも話したけれど、誰もが起業を目指していたんですよ」
■葬儀社で「死」と向き合った日々
卒業後は外資系のアンダーセンコンサルティング(現アクセンチュア)に。
「『ケイン-』の影響もあり、3年で辞めて起業すると決めていました。日本の商社も受けたんですけど、3年で辞めると言ったら絶対にとってくれない。育成期間中に辞められたらたまらない、と。外資系は逆に受けがいい。西村クンが起業して成功したらウチのブランド価値が上がるから、と考えるんですね」
大学時代のバイト先に葬儀社があった。4年間で800人を送った。
「死体って重いんです。生身の人間の倍くらいの感覚です。死んじゃったら何もできないということがズシリと伝わってきました。病気で亡くなる人もいれば、朝元気で出掛けて突然事故で、という場合もある。たくさんの人が悲しむこともあれば(葬儀社の)僕らしか線香を上げる人がいないこともある。社会貢献の量が人生の価値を決めるんだとつくづく思いました。仕事だけじゃなく、1分1秒何事も人の役に立ちたい。そう思うのはあの経験があったから。子どもに残せるのはお金じゃなく、そういうことだと思ってます」
入社3年目の起業で、最初に目を付けたのがネット・スーパーだった。
「男女雇用機会均等法が施行された年でしたし、買い物の手間を省くビジネスには自信がありました。アクセンチュアではシステムをやっていたので、ネット・スーパーのやりとりに使うボイスメールのシステム運用を事業にしたんです。が、これが大失敗。25歳で起業して27歳の時には借金が7000万に膨らみました。あの頃、公衆電話に張ってあった(貸金業の)怪しいチラシに何度も手が伸びそうになりました」
■「昭和演歌」CMで一気に広がり
自信を持って臨んだ事業の失敗を「偶然の産物」に救われることになる。
「周囲から渡米費用をかき集め、アイデアを求めてラスベガスで開催されたIT見本市に出掛けたんです。わらをもつかむ思いでしたが、これというものはなかった。失意のまま、サンディエゴに住んでいた友人を訪ねることにしたんです。航空便の遅れで空港に迎えにきてくれた大切な友人を4時間も待たせることになってしまったんです。携帯電話を持っていなかったから…。その時です。海外用のレンタル携帯電話事業が頭に浮かびました。結果的にこれがヒットしたんです。自信を持って準備したものが失敗し、窮余の思い付きが当たった。とにかく打席に立つ。何でもやってみることなんですね」
まだガラ携時代の08年、ネットを介したモバイル通信が主流になると確信した。英国の取引先との会食で、さりげない発言がヒントになった。
「あの確信が12年に海外用レンタルサービス『イモトのWiFi』につながりました。5年後の昭和演歌シリーズのCMで一気に広がり、日本人の7割8割がイモトを知った。知名度の大切さを実感しましたね。最近、SNSであれこれ批判されるのは知名度のせいかもしれないけど、SNSで発信を続けているのは、結果的にいろんな人とつながれるからです」
19年に美容医療に参入。
「イモトの成功を一発屋みたいに言われて、まったく違う分野でマーケティング力を証明したかったんです。ところが、スタート翌々月にコロナが始まった。海外に行けなくなってイモトもゼロに。最大の危機ですよ。そんな時にりそな銀行が業績より僕という人間を見て、融資を決めてくれた。恩義を感じてます」
■コロナ逆転発想
首の皮1枚で、先も見えない中で奇跡が起こる。PCR検査サービスだ。
「向かい風のコロナを追い風にするものは何だろう。考え続けていたときに大企業に勤めている友人たちから『濃厚接触者が増えているのに検査ができない』と切羽詰まった声が続々入ってきた。機器も施設も圧倒的に足りなかった。高速スタートが必要でした。医療商社からは『発注しても機器が届くのは4カ月後』と言われました。億単位の投資はバクチでしたが、10台前金で買うから1台だけ早くとか、4カ月前に発注した業者から何とか1台とか…。機器は大きい上に電圧が高いから適合する建物もなかなかない。実態が分からないからオーナーさんは怖がる。ビル内のオフィスからはNOがでる。一棟借りするか、いっそ買うか…そんな難問山積を1カ月でやりきった。それまでの失敗や思いがマグマのように噴き出してこの事業を動かした。そんな気がしました。同じことをもう1度やる自信はありません」
発案から115日後1日の売り上げが1億円に達した。
■うれしさと無念
コロナ収束後に力を注いでいるのが不妊治療だ。
「長男、次男は自然妊娠で授かりましたが、年の離れた9歳になる長女はアメリカで不妊治療を受けて授かったんです。あの先端治療がなかったら娘に会うことはできなかった。3歳下の弟夫婦も日本で不妊治療を受けていたんですけど、授からなかった。自分のうれしさと弟の無念。それがあって日本にも先端治療を持ち込みたかった。1年の準備期間を経て22年ににしたんARTクリニックを初めて新宿に出したんです」
3年間で12院。毎月延べ2万人が通う日本最大の規模に拡大した。
「最初に患者さんに接する受付カウンセラーの女性が言うんです。初来院で深刻な顔をしていたご夫婦が妊娠が分かった日には満面の笑みを見せてくださる。何回経験しても忘れられない、と。仕事や支援活動でいろんな形の感謝をいただきますけど、命を生み出してもらう『ありがとう』には特別なものがあります」
◆西村誠司(にしむら・せいじ)
1970年(昭45)5月20日愛知県生まれ。生活保護を受ける家庭に育ち、中学から新聞配達。名古屋市立大経済学部卒業後、93年アクセンチュア入社。95年に起業。個人資産300億円。都内に総工費30億円の邸宅を構える。「看護師支援プロジェクト」の他TikTokを通じて「シングルマザー、ファザーに旅行プレゼント」「北海道東川町のお米プレゼント」などの支援を実施。
○…大の相撲好きと聞き「社長!雲竜型と不知火型のどちらがいいでしょう」とポーズをお願いすると迷わず不知火型を選んだ西村誠司社長。スピード感あふれる行動力の話を聞いた直後に「今度相撲見ながら食事しよう!」とのお誘いを受け「もしも本当にお誘いが来ちゃったらどうしよう」と汗を流す私だった。(中島郁夫)



