「アンパンマン」シリーズの原作者で漫画家のやなせたかしさん(本名・柳瀬嵩=やなせ・たかし)が13日午前3時8分、心不全のため東京都文京区の順大病院で亡くなった。94歳だった。新聞記者などを経て、1961年(昭36)に「手のひらを太陽に」を作詞。73年に「あんぱんまん」が大ヒットし、88年にアニメ化された。近年は画業60年、「アンパンマン」出版40年、アニメ化25年の節目となる今年を励みに創作活動を続け、意欲は衰えることを知らなかったが、ついに力尽きた。

 やなせさんが、子どもたちを見守る天の星となった。関係者によると、やなせさんは例年、検査とリフレッシュを兼ねて入院を繰り返していた。8月下旬から入院し、亡くなる前日12日は、スタッフが付き添っていた午後10時までは元気な様子だったが深夜2時頃、心電図に乱れがあり、病院から連絡を受けたスタッフが駆けつけた時には反応がない状態に。最期は苦しい表情もみせずに、眠るように息を引き取ったという。みとった事務所のスタッフの1人は「本当に穏やかな死に顔で『先生!』と肩をたたくと、今にも目を開けそうでした」と話した。

 「病気の総合商社」と自称するほど病気と手術を繰り返し、白内障、緑内障、糖尿病、心臓病、腸閉塞、ヘルニア、ぼうこう炎、腎臓がん、ぼうこうがんを患った。抗がん剤の投与を望まずも、スタッフには2、3年前に「ぼうこうがんは治ったんだよ」と胸を張っていたが、実は肝臓に転移していた。本人には告知されていなかったという。

 93年に亡くなった暢(のぶ)夫人との間に子どもはなく、「アンパンマン」の出版元フレーベル館に「葬儀はコンパクトに、しのぶ会はフレーベル館が主体ににぎやかにやってくれ」と伝えていた。同社とアニメを放送する日本テレビ、制作のトムスの関係者ら約60人が集まり、この日、東京・落合斎場で密葬が行われた。おしゃれで、自身のシルエットをデザインしたスリーピースと帽子がお気に入りのスタイルだったが、それが死に装束となった。ひつぎはアンパンマンらの人形と花で、いっぱいになったという。

 28歳で上京、三越宣伝部デザイナーなどを経てフリーの絵本作家、漫画家として活動したが、漫画ではヒット作に恵まれなかった。「あんぱんまん」を生みだした時は54歳だったが、反骨精神をバネに、創作意欲は衰えなかった。「もう何年か生かしてくれ。まだまだ描きたい。どんどんキャラが生まれる」。日本テレビで88年10月3日に放送が始まったアニメでは、09年3月27日放送分まで1768体のキャラを作り、同7月に「単独のアニメシリーズのキャラクター数」のギネス世界記録の認定を受けた。

 既に来年の映画の構想も固めつつあり、スタッフに伝えていた。複数のアニメ関係者の話を総合すると、リンゴをテーマにした話だという。東日本大震災発生後、テーマを考えていた時に、若い頃、東北を旅行した際に見たリンゴ並木と、旅館で食べたリンゴの味を思い出し、「東北の農家を救わないといけない。日本をリンゴのように真っ赤にしたい。今1度、リンゴをテーマに映画を作りたい」と語っていたという。

 11月にフレーベル館から出版される遺作「アンパンマンとリンゴぼうや」が絡んだ可能性もある。やなせさんのカバンには、まだたくさんのキャラクターが詰まっていた。

 ◆やなせたかし(本名・柳瀬嵩=やなせ・たかし)1919年(大8)2月6日、東京生まれ。39年東京高等工芸(現千葉大工学部)卒業後、中国に出征。復員後、高知新聞社に入社。「月刊高知」で挿絵を担当。28歳で上京し、三越宣伝部にグラフィックデザイナーとして入社。包装紙や袋のロゴデザインなどを担当した。34歳で独立し、漫画、絵本、作詞を手掛け、雑誌「詩とメルヘン」の編集長を72年の創刊以来務めた。90年、日本漫画協会大賞受賞、91年、勲4等瑞宝章受章。00年から12年まで日本漫画家協会理事長を務める。

 ◆アンパンマン

 ジャムおじさんが作ったパンに流れ星が落ちてきて生まれたのがアンパンマン。成長したアンパンマンは街の平和を守るため、仲間とともにばいきんまんと戦う。73年に絵本として登場、88年にアニメ「それいけ!

 アンパンマン」として放送が始まった。放送回数は10月11日放送分で1191話に達し、登場したキャラクターも2000近くなり、世界一登場キャラクターの多いアニメとしてギネスブックに登録されている。映画化もされ、横浜などに「アンパンマンこどもミュージアム」のテーマパークがある。