2011年(平23)3月11日に東日本大震災が発生してから15年がたちました。

地震と津波による被害で、宮城県気仙沼市の大島は大きな打撃を受けて完全に孤立しました。本土と島を結ぶ大型フェリーは流されて運航ができない状態。本土へ仕事に行っていた人たちは“足”を失って島に戻ることができません。しばらくの間、家族の安否を知ることさえできない人たちが大勢いました。

そんな中、「津波の時は沖に出ろ」との古からの教えを守り、素早く沖へ出て小型船「ひまわり」を守ったのが菅原進船長です。菅原さんよりも遅れて沖に出ようとした船は波に押し戻されました。

菅原さんは自宅を流されました。それでも、家族と身を寄せていた避難所から毎日、島と本土を「ひまわり」で何度も往復。島民の唯一の命綱として「みんなのためになるなら」との一心からです。もちろん、料金は受け取りません。

海に出る菅原さんには人や物資を運ぶほかにもう1つ、大切な目的がありました。それは行方不明になった人の捜索です。海上などで6人の遺体を見つけました。孫の友人もいたそうです。

やがて大型フェリーの運航が再開し、19年3月には本土と島をつなぐ「気仙沼大島大橋」が完成。車や徒歩で24時間いつでも行き来ができるようになったことで「ひまわり」の役目は終わった。そう思い、廃船にする決意をします。つまりスクラップです。ところが小学生から「『ひまわり』を残してほしい」との手紙が届いて考えを改めます。「震災の記憶を風化させないためにも『ひまわり』の保存は必要。未来を担う子どもたちに津波の怖さを伝え続けないといけない」。島に住む有志らと「臨時船『ひまわり』を保存する会」を設立し、島の高台に新築した自宅敷地内に船を移設しました。

当初、震災遺構として船を展示をする「保存館」の建設に3000万円かかるとの見積もりが出されました。クラウドファンディングを実施し、募金と合わせて集まったのが400万円超。海から陸に上げる移設費や船を固定する土台費などで資金は底をつきます。現在は「保存館」という言葉のイメージとは程遠く、「ひまわり」の設置場所には屋根や壁がなく、風雨にさらされて客室は何度か雨漏りをしています。

震災のあと、日刊スポーツでは紙面やWEB記事で「ひまわり」の保存活動を継続的に報じてきました。昨年7月に菅原さんが死去したことで「保存する会」の活動は今、存続を含めた大きな転機を迎えています。震災の記憶の風化が言われる中、今年も「『ひまわり』の現在地」を取材をしています。記事を読んでいただけたら幸いです。【松本久】