11月いっぱいで、野球担当を離れることになった。ヤクルトとは13年、14年に続いて今年と計3年間、番記者として日々を共にした。「お世話になりました」。言葉にして頭を下げるたびに、鼻の奥がツンとする感覚に襲われた。選手、首脳陣、スタッフ、球団職員…多くの方々からいただいた温かい言葉は枚挙にいとまがない。

3度のトリプルスリーと今や球界を代表する強打者となった山田哲人内野手だが、担当初年度はまだ2軍施設の戸田で才能の芽を育んでいる最中だった。かつて「就寝前にチーズバーガーで増量」という内容の原稿を書いた時に「勘弁してくださいよ。もう話したくないです」と真っ赤な顔で口をとがらせた青年は、4年ぶりに担当記者として再会すると立派な野球人への階段を着実に上っていた。

今夏、トリプルスリー達成時にと、自身の打撃フォームの連続写真を3年分解析してほしいと提案した。シーズンも佳境を迎える時期だけに、断られるのを承知で持ち込んだが「面白そうですね。やりますか!」と快諾。疲労困憊(こんぱい)な時でも「盛り上げないとね」と取材に応じる選手になっていた。厳しい質問にも、嫌な顔を見せず自分の考えを発した。「環境が変わるからって、何かを変える必要はないんじゃないですか。ま、大丈夫っしょ。僕も頑張りますから、今度は偉くなって帰ってきてくださいよ(笑い)」。昔から変わらない人なつこい笑顔で、新たな環境にぶつかっていく勇気をもらった。

担当した3年間、指揮官はいずれも小川淳司監督だった。前回担当時は2年連続の最下位で、14年で監督の座を退いた。時を同じくして、記者も担当を離れた。そして今年、偶然にも同時に再び神宮を主戦場にすることになった。勝負に敗れてどんなに悔しい時でも、思いを必ず言葉にし続けた。人に、仕事に、野球に、いつも真摯(しんし)に向き合う姿は不変だった。

20歳上の指揮官からは人生の“先輩”としても多くの金言をいただいた。「これからは仲間が仕事をしやすい環境をつくってあげることが、一番大事になるんじゃないかな。頑張りすぎなくていい。自分ができることを、今まで通りに一生懸命するだけでいいと思うよ。ただ、無理だけはするな」。最後の最後まで、気遣いと優しさにあふれた人だった。自然と肩に入っていた力みを消してくれた。

少年時代、記者のあこがれはプロ野球選手だった。放課後は白球を追いかけ、夜はテレビ中継にくぎ付けになった。選手になる夢はまったくかなう気配もなくついえたが、野球担当記者として8年間、憧れた世界で仕事ができた。縁あって担当したヤクルトと巨人には、特に感謝の念が尽きない。今振り返ると、たった8年だが、少年時代のように、不惑を過ぎても「野球」から「力」をもらっていた気がする。12月からはサッカー担当を拝命した。新たな出会いに胸を躍らせながら、全世界の人々にとって日々の活力になっている「サッカーの力」を実感しつつ、丁寧に言葉を紡いでいきたい。【ヤクルト担当 浜本卓也】