北海道移転を翌年に控えた03年夏。日本ハム球団取締役(当時)三沢今朝治(77=現BCリーグ・信濃グランセローズ相談役)は、球団の役員会でこう切り出した。

「新庄を移転の目玉にしたい」

即座に否定的な声が上がった。本社の役員も兼ねていた人には「アイツは野球選手としてはもう終わりだろう」と猛反対された。

三沢 移転が決まったあと、ひそかに地元でアンケートを取ったんです。日本ハムで知っている選手をあげてもらったら、小笠原、岩本くらいしか名前が挙がって来なかった。移転が成功するには1年目が非常に大事と考えていたから、インパクトの強い人がどうしても欲しかった。

そういう三沢も、新庄のキャラクターには一抹の不安を持っていた。「正直、野球を軽く考えているのかなというイメージがありました。チームの和を乱すところがあるからといって、1歩引いていた球団もありましたし」。

が、交渉で初めて会ってみると、イメージは180度変わった。まじめで、気遣いもできる。「来てもらえるならどんな条件でもクリアする」と関係者を通じて伝えても、突拍子もない要求はゼロ。三沢は「いたって普通の条件ですよ。新庄らしいなと思ったのは、補殺のボーナスをつけてくれって言ってきたこと。確か年間15補殺だったかな」と振り返った。

入団2年目の05年のことだ。翌年の第1回WBCに向けて「日本代表」の機運を高めるため、NPB(日本野球機構)は各球団のトップ選手を1人選び、12選手を並べたポスターを作製した。NPBが指名してきたのは新庄。三沢がその話を新庄にすると、新庄はこう言った。

「日本ハムの顔は小笠原君じゃないですか。小笠原君が了承したらやりましょう」

三沢が新庄の考えを小笠原に伝えると、小笠原はいたく感激し、了承した。

アクの強い生え抜きがいなかったこともあり、新庄はすぐにチームになじんだ。そして、「引っ込み思案というか、自分を出せない選手が多かった」(三沢)チームカラーを根本から変えていった。

三沢 多くのファンや報道陣をひきつれた新庄をみて、注目されるとはどういうことか、プロとしてファンの存在の大きさをほかの選手が認識したんじゃないかな。森本(稀哲)なんか特に。移動の時の服装がみんなオシャレになりました。ジャージーで外出する選手はいなくなりましたね(笑い)。

移転そして新庄加入から3年後。日本ハムはリーグ優勝、日本一に輝く。明るく、親しみがあって強い。チームは北海道に完全に根付いた。

三沢 新庄が来てくれなかったら、今の日本ハムはなかったかもしれませんね。本当に感謝しています。(敬称略=つづく)【沢田啓太郎】