「奇跡のリリーバー」と呼ばれた投手がいる。脳腫瘍を克服した盛田幸妃氏。シュートを駆使し、平成初期のゲーム終盤で強烈な輝きを放った。病床からのブログで「恩人。会わなかったら自分はなかった」と記し、父親のように慕われた巨人小谷正勝巡回投手コーチ(73)が語る。

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2軍のブルペンから出てきた小谷とはち合わせた。「盛田さんのことを」と言うと、しばらく立ち止まってから「戻ろう。こっちへ」ときびすを返し、古い小屋に入った。

2月1日の宮崎は冷える。ブルペンの控室は暗く、白い筒形の灯油ストーブがあった。腰掛け、小窓の中で揺れる消えかけの炎をじっと見て、帽子を脱いで頭をかいて、固まった。小窓に手をかざして、ぼそりと語りだした。

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ドラフト1位で入った盛田なのに、積極的に使おうとする雰囲気がまるでないわけだ。わざと使わないようにも見える。聞いて回ると「生意気で、言うことを聞かないので」と言う。頭に来てな。絶対に、何とかして世に出すと決めたんだ。実際、そんな素材だった。1位だからな。

ピッチャーとしての感性が豊かで、頭が良かっただけ。自分をしっかり持っていて、ハッキリと意見を言える素直な子。それを生意気と言うのは間違っている。そのうち1軍で投げるようになったけど、名前を売ったのは落合(博満)を完璧に抑えたからだ。

「投げてきますわ」とマウンドに行って、本当にあのシュートで落合をひっくり返してもまだ、投げ続けていた。7球とか8球も続ける度胸があった。まともに打たれた記憶がないんだよな。ヒットもカンチャンで、ライト前に落ちるっていう。当時はホールドという概念が生まれたばかりで、やりがいに感じていた。

今となっては反省が残ってしまう。9回に佐々木(主浩)がいて、8回は盛田。7回を安心して任せるピッチャーを作れなくて。どうしても負担が大きくなってしまった。で、近鉄にトレードになってから脳腫瘍が分かった。「知っててトレードに出したのか」と問い詰めたら、誰も知らなかった。「足がつる、けいれんする」と言ってたんだ。まさか脳に…知識が足りなかった。

近鉄でカムバック賞を取った。あれだけ大きな病気をして戻るだけでもすごいのにな。「小谷さん、もうオレは昔みたいに速い球を投げられる体じゃありません。でも投球って何かと言えば、いかにバッターのタイミングを外すか…それがようやく分かりました」と話してきた。実際に変化球でゴロを打たせるスタイルにガラッと変えたんだけど、そういう感性があった。相当、努力したんだろう。

当時のベイスターズは年の近い子が多くて、にぎやかでね。キャンプで朝まで戻ってこなくて心配してたら、上半身裸で帰ってきてさ。体中にマジックで落書きが書いてある。「お前は一体、どこで何をしてきたんだ」って…あの頃は本当に楽しかった。亡くなる10日くらい前、危篤になってから見舞いに行ったときに佐々木と野村(弘樹)も来てくれて。あの子らは仲が良かったから。優しいなと思った。

一流になる選手というのは非常に繊細で、人の気持ちも分かる。技術だけじゃトップにはいけない。感性が豊かじゃないと。盛田も、特に佐々木なんかもそうだけど、普段はとにかく威勢がいいから、そこしか見えない人は誤解する。でも実際はまったく違う。マウンドとは、虚勢を張らないと戦えない場所でもある。3人を見てそんなことを考えていた。

盛田には弟がいて、小学校に上がる前にがんで亡くしている。かわいがっていたらしい。手を合わせてから毎日グラウンドに出ている話を聞いて、やっぱり優しい、繊細な子だなと思ったよ。もっと早く気付けばとか、若いうちから検査を受けろ…言ってたけど、もっと強く言えば良かったとか…後悔しても遅いな。

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「書いてやってくれ。練習があるから」。ストーブの火が消えたことを確認すると、小谷は口を真一文字に結び直して去った。(敬称略)【宮下敬至】

◆盛田幸妃(もりた・こうき)1969年(昭44)11月21日、北海道茅部郡鹿部町生まれ。函館有斗(現函館大有斗)で甲子園春夏3度出場。87年ドラフト1位で大洋入団。92年最優秀防御率。シュートを武器に、落合博満を通算50打数9安打に抑えた。97年オフにトレードで近鉄移籍。98年9月、左頭頂部にできた脳腫瘍の手術を受け、01年6月13日ダイエー戦で1082日ぶり白星。同年カムバック賞受賞。02年現役引退。現役時代は186センチ、89キロ。右投げ右打ち。94~97年の登録名は「盛田幸希」。15年10月16日、転移性悪性腺腫のため45歳で死去。

92年9月、広島戦で力投する盛田さん
92年9月、広島戦で力投する盛田さん