1979年の第61回大会で、滋賀県代表の比叡山が都道府県別では全国最後となる夏1勝を挙げた。1回戦で釧路工(北海道)を圧倒し、8強入り。第1回地方大会から参加しながら、第60回大会で各都道府県1校制になるまで京都府の厚いカベに甲子園出場を阻まれ続けた。その後は瀬田工、甲西が4強入りし、第83回大会で近江が準優勝。大優勝旗に迫る位置に来た。

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 箕島(和歌山)-星稜(石川)が延長18回の名勝負を戦った79年夏の甲子園で、球史が生まれていた。比叡山が2度目の出場で夏の全国初勝利。59年卒の二塁手で野球部OB会長を務めた山田功(現顧問)は、その日を鮮明に覚えている。

 山田 0-3で負けてて、また今年もか…と思うて。そしたら逆転して、7回の奥村君のヒットでガッと盛り上がって一挙4点取って。それから落ち着きました。まあ、珍しいこともあるもんやなと(笑い)。

 京都勢と甲子園切符を争った京津大会で、滋賀が勝ったのは第35回の八日市(7-3西舞鶴)が最初。

 山田 京都には平安があります。高い高い、ごついごついカベでした。

 京津、京滋の決勝で滋賀勢は平安中(平安)に12連敗。第49回で守山が初めて勝ったが、第51、52回で比叡山が連敗。翌年比叡山は宮津に勝ち、甲子園初切符をつかんだ。第56回からは福滋大会で福井代表に4年連続で敗れていた。

 釧路工戦で安打を放ったのが、宮崎裕也。現在、滋賀県高野連の評議員を務める宮崎は、前年78年のセンバツ(第50回大会)で、前橋(群馬)のエース松本稔に完全試合を達成された先輩の姿を見た。

 宮崎 下級生も甲子園の宿舎に連れて行ってもらったんですけど、試合後は夜中に帰ってきたんです。地元の野球熱がすごいから、昼間に帰ったら何が起こるかわからん。親だけに連絡して夜中の12時頃、学校に着くなり逃げて帰るように家に帰った。1勝より、1本ヒットが出るまで安心できへんかった。

 延暦寺、日吉大社の門前町として栄えてきた大津市の坂本は、野球熱にあふれた町だった。

 山田 自分の子ども、孫関係なしに、下手なことしとったら「こらーっ!」て声が飛ぶ。そういう方に野球部は育てられた。

 天台宗教師の育成機関として生まれた学校。甲子園出場時は僧侶が練習に随行し、内容を延暦寺に報告。さらに比叡山を鍛えたのは他県での練習試合だった。

 宮崎 広島遠征で西条農に負けて、コーチに気合入れ直せって叱られたんです。そのあと広島商、崇徳、山陽に連勝して自信がついた。滋賀で優勝じゃなくて、その先を考えることができた。甲子園でどれだけやれるかと。

 中京大卒業後、宮崎は野球を教える側になった。

 宮崎 北大津で04年の夏に初めて甲子園に行き、東北に0-13で負けた。そのときに思いました。甲子園に出る以上は、勝てるチームで出ないとあかん、と。

 08年春に北大津は東北(宮城)、横浜(神奈川)を撃破。7失策を記録しダルビッシュ有(カブス)に完敗した夏が快進撃の原点になった。10年夏は2試合連続18安打で大会2勝。通常より20センチ長く、重さ1・2キロのバットによる1日1000スイングで鍛えられ、初球からフルスイングのナインは「猛打の北大津」を全国に定着させた。全国制覇を目指した宮崎の、本気の証しだった。

 近畿で滋賀は唯一、優勝経験がない。県外の強豪を目指す中学生をつなぎ留めることも、滋賀の課題だ。

 宮崎 甲子園に出るだけではなく、優勝する。滋賀も目標をそこに置かんと。

 今春センバツには滋賀3校が出場も、頂点には届かなかった。歴史を変える学校はいつ生まれてくるのか。(敬称略)【堀まどか】

 ◆滋賀の夏甲子園 通算31勝48敗。優勝0回、準V1回。最多出場=近江12回。

比叡山硬式野球部OB会の山田功元会長
比叡山硬式野球部OB会の山田功元会長
79年夏に県勢として甲子園初勝利を挙げた比叡山の元選手、宮崎裕也氏
79年夏に県勢として甲子園初勝利を挙げた比叡山の元選手、宮崎裕也氏