木内幸男は今、取手市内の自宅で悠々自適の生活を送っている。常総学院の監督を退き、ほぼ60年に及ぶ監督生活に終止符を打ってから6年が過ぎた。

「終わった監督だから、もう取材は受けてないの」と言いながら、吉田の連載だと説明すると「子供のことなら答えなきゃな」と笑った。自宅のソファに座り、33年前を語り始めた。

木内 オレは、茨城らしくないチームを作りたかったの。茨城は人間を作る野球、勝敗にかかわらず立派な野球をやろうとするところがあった。教育なんだね。でも、いつまでも勝てない。子供らも、人生をかけた野球が「教育」だけではつらすぎるでしょう。だから子供らが喜ぶ野球をやろう。子供中心の野球をやろうと。そう切り替えたの。

そんな時に吉田らが入学してきた。石田文樹、中島彰一、佐々木力、下田和彦、桑原淳也ら能力の高い選手が集まった。

木内 声をかけたのは4番(桑原)だけ。彼は、たまたま何度か見ていい打撃をしてたから「うちに入って4番にならないか」と言ったけど、あとは知らない。中学生を見に行く暇もなかったから。それなのに取手市内の中学から吉田とか、いい選手が集まった。石田、中島、佐々木はオール茨城で、誰かが「取手二でやっかな」って言ったらしい。オール茨城から4、5人来たかな。いいのばかりじゃねえっすけどね。

吉田の印象を聞いた。吉田は高校時代、木内に叱られた記憶がないという。常に放任主義だった。

木内 吉田は天才的だから。風邪で何日休んでも、出てきた日にホームラン打っちゃうようなヤツだから。野球に関する限り、監督としては文句なし。それにね、あいつは怒るより「頼むぞ」と任せた方がいい。本当に任せるわけじゃないけど、任せたふりをした方がチームをまとめてくれる。「分かった」と言えば、たとえ火の中、水の中というタイプですから。オレと性格が合うんですよ。

木内が彼らに期待を寄せていたエピソードがある。1年の夏休みだった。すでに3年生が引退し、新チームで二松学舎大付と練習試合を行った。同校は監督の青木久雄に率いられ、この年のセンバツで準優勝していた。チームメートの小菅勲が鮮明に覚えている。

小菅 我々は1年生が中心のチームで勝ったんだよ。そしたら有名な青木監督が「この子たちは甲子園でも勝てる」と、ほめてくれた。じいさん(木内)喜んでさ。「お前らは甲子園に出るんじゃない。勝つんだ。ベスト4に入るんだ」と言った。

このセリフは吉田も記憶に残っている。

吉田 甲子園のベスト4なんて「何を言ってんだ?」と思ったけどね。

能力が高い選手たちを自由にやらせる。それが最大限に力を引き出す方法だと、木内は考えた。選手たちが自由に動き回る野球で甲子園を勝ち上がる。

その象徴が吉田だった。彼は自由に動き回った。グラウンドでも、そして外でも…。(敬称略=つづく)【飯島智則】

(2017年12月1日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)