都会のど真ん中から、初の甲子園を目指す。青山学院(東東京)安藤寧則監督(39)は、東京・渋谷の同校グラウンドで19人の部員と聖地を夢見る。最高成績は06、11年の8強で、近年夏は必ず3回戦以上へ駒を進めている。グラウンドが使えるのは週2回。しかも半面のみで硬球は使えない。野球に対する飢えが、自主性へとつながった。少数精鋭の青学ナインは7月9日、三商と初戦を迎える。

 試合に勝つための、自立した集団がそこにいた。練習開始から約20分後に、安藤監督がグラウンドに現れた。練習は既に熱を帯びていた。「今日みたいに(練習を)見ているだけということもよくあります」。その後、“勝手に”挟殺プレーが始まった。おかしな動きをすれば、プレー中断の声が上がる。問題点を話し合う選手たちを、監督は輪の外で見ていた。

 グラウンドは都会のど真ん中にある。半面を使って練習できるのは週に2回だけ。「野球に対する飢えがあるのかもしれません」。これが、うまくなる理由だ。約2時間半の練習で今日はどんなことをして、どううまくなろう-。それぞれが、真剣に考えている。

 就任当初は、現在と正反対の練習風景だった。98年、青学大野球部3年の時に当時の河原井正雄監督(61=現アドバイザー)の薦めで高校野球の監督になった。「全く考えていなかったので驚きました」。もちろん、断る理由はない。リーグ戦未出場のまま、弱冠20歳の新米監督が誕生した。青年監督は、野球人としても、人間としても理想を突きつけた。

 「当時は1から10まで指導していました。無知の知で、3年くらいで甲子園に行けると思っていました」。打ち砕かれたのは約10年前。チームの平均身長が約180センチに迫るほど有能な選手がそろった。甲子園へ手応えを感じたが、最高成績は16強で終わった。その時、気付いた。「全部間違っていました。選手をがんじがらめにして、発揮能力を殺していました」。能力を出し切る指導をしていなかった。

 スタイルを変えた。良いプレーをたたえ、話を聞くことから始めた。すると、自ら練習に取り組む姿が見え始めた。「走るメニューとかも、面白いってやっていました。やればやるほどうまくなるって本人たちが感じたのか、すごく練習するようになりました」。06年同校初のベスト8入りを果たしたのは必然だった。

 現チームの1試合平均の失策は1つ。鉄壁の守りが売りだが、実は個々の身体能力は低い。「50メートル6秒台で走れる選手はチームに1人もいません。衝撃ですよね(笑い)。でも、野球は道具を使うスポーツ。ちゃんと野球をやれば勝てます」。1歩目が遅れ、判断に迷えば致命傷になる。それを一番分かっているのは選手たちだ。大都会で磨かれた自立の精神は、安藤監督との信頼関係の上で成り立っている。【和田美保】

 ◆安藤寧則(あんどう・やすのり)1977年(昭52)5月17日、岡山県生まれ。岡山大安寺中教校(岡山)から青学大へ。3学年上に井口資仁(ロッテ)がいた。リーグ戦出場はなく、大学3年の秋に青山学院(東東京)の監督に就任した。家族は夫人と1男。