プロ野球の大洋、ヤクルトで監督を務めた関根潤三氏が死去したことが9日、分かった。93歳。

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いつも柔和な笑みを浮かべて話す関根さんが、このときは突然、気色ばんだ。「好きなんですよ。ほれたはれたに理屈なんてねえんだよ」。語気強く、江戸っ子が言い放った。

81年オフ、大洋(現DeNA)の監督就任発表の席だった。長嶋茂雄氏の招へいに動きながらOKをもらえず、自らが就任した。その席で「ミスター(長嶋監督)が来るなら、いつでも譲ります」と再びラブコールを送った。「就任の席で譲ると言うのは、ファンにも選手にも失礼でしょ」。こう突っ込むと、冒頭の発言が飛びだした。

選手としては二刀流の先駆けだ。入団から8年目の57年、開幕直後に突然、投手から野手に転向した。西鉄戦でKOされ、自ら決断した。芥田監督に「ピッチャーはもういいです」と申し入れ「で、何番を打たせてくれますか? クリーンアップじゃなきゃ嫌です」と付け加えたという。転向初戦の阪急戦で5番右翼に入り、3安打した。「どう頑張っても20勝は無理だと思ったんでね。当時は20勝できなきゃエースじゃないもん」。

故根本陸夫氏(元ダイエー球団社長)がこう話したことがある。「潤ちゃんは見た目紳士だけど、オレよりよっぽどワルだよ」。日大三中(現日大三)からの付き合いで、バッテリーを組んだ仲。「球界の寝業師」と呼ばれた人も一目置いた。

酒は飲まなかった。コーヒーとたばこがあれば、朝まで野球談議を続ける人だった。実況中の放送席を抜け出し、よく外野近くの喫煙所にやってきた。「ここまで来ますか? 好きですね」。声をかけると「わたしゃ、吹かしてるだけ。座りっぱなしだからね」。ああいえばこういう。そんな会話も、もうできなくなった。【米谷輝昭】