7年前の2013年5月6日、42歳の中日谷繁元信捕手が史上最年長で2000安打を達成した。捕手では野村克也、古田敦也に続き3人目の快挙。谷繁は「自分は野球が仕事で、キャッチャーというのが仕事。その結果がたまたま、ここまで来た」と手記を寄せた。翌14年から兼任監督となり15年に選手を引退。通算安打は2108本。出場試合3021は野村克也の3017を抜き歴代1位だ。

翌7日の日刊スポーツは1面トップで伝え、谷繁の手記も掲載した。

【復刻記事】

中日の谷繁元信捕手(42)が、捕手3人目となる2000安打を達成した。ヤクルト7回戦の6回に押本から右前打を放ち、プロ野球史上44人目となる快挙を達成した。42歳4カ月での到達は宮本(ヤクルト)の41歳5カ月の最年長記録を塗り替え、2803試合目での達成は中日などでプレーした大島の2290試合を抜き最も遅いペースとなった。史上最低打率での到達は、捕手道を歩み続けてきた男の勲章だった。

スタンドの「谷繁コール」が鳴りやまない。誰よりもヒットを防ぐことを考え続けてきた男が、バットで超一流の仲間入りを果たした。4回に1999本目となる2点二塁打を放ち、続く6回だった。無死走者なしから、ヤクルト押本の133キロスライダーを捉え、一、二塁間を破った。

谷繁 ああ、打ったんだなと。何か感じるかなと思ったけど、いつもと一緒だった。チームが借金8になったから、そっちの方が悔しい気持ちもある。

スタンドには、両親とともにこの日9歳の誕生日を迎えた三男朗(ろう)君の姿があった。この日自宅を出発する際、Vサイン(あと2本)で送り出された。「プレッシャーをかけるなよ」と苦笑いだったオヤジが、かっこいい姿を見せた。試合後には「2000安打おめでとう!」と書かれた色紙を手渡され、父親の顔に戻った。

通算打率2割4分台は通算2000安打以上の選手では最低の数字だ。25年のプロ人生で安打を刻み続け、「打てるなんて1度も思わなかった」数字に達した。これまでで最も遅かったペースより513試合も費やし大台に到達した。

谷繁 (捕手では)過去に野村さん、古田さんの2人しかいない。3人目ということを考えると、よくやったんじゃないかな。常に7、8番を打っていて、クリーンアップを打ったわけじゃなく、こつこつやった積み重ねだと思う。

7割の動きができればケガじゃない-。大洋に入団して4年目。ある試合を休んでからまったく使われなくなった。「プロ野球をなめていた」。休むことは敵に隙を与える。休むことはチームのライバルにも隙を与える。目の色が変わった。「ちょっと痛いから休むというのはオレには分からない。ちょっと痛くても出ながら治していく」。42歳になった今でもブレない。今季は開幕直後に右ももを痛め、それをかばって4月7日巨人戦で左ももを痛めた。今でもユニホームの下には両足にテーピングが施されている。

「野球選手は孤独。誰も助けてくれない」という信念を持つ。投手に対して修正点などは指摘するが、優しい言葉をかけることはしない。用具へのこだわりも息の長い選手生命を支えてきた。スパイクは走りやすさより守備で打者のファウルから足を守ることを重視し、硬い素材を使用している。自らへの厳しさを貫いて大台到達を成し遂げた。

勝敗に直結するポジション。97年以降、所属チームが16年連続Aクラス入りしたことが何よりも誇りだ。「こういう状況だけど、最後まで戦う姿勢を貫きたい」と、自身の記録よりチームの成績を第一に考える。2000安打までに誰よりも費やした多くの時間。その長い道のりは、谷繁への信頼の証しだった。

<谷繁手記>

こんな日が来るとは思わなかった。妙な感覚です。プロ野球に入ったときは2000本打とうなんてこれっぽっちも思わなかった。亀ですね。例えると。ゆっくり、ゆっくり。今思うとそうなのかな。いろんな人がいる。最初からパーンと出てダメになる人もいる。ボクは大した成績を挙げないけども、これくらいをゆっくりゆっくり来てる。

オレはキャッチャーしかやったことない。だから、この数字がどうっていうのははっきり言ってピンと来ない。とにかく野球が好き。というか、必死に野球をやってきただけだから。

プロに入った時は18歳。横浜(当時大洋)コーチ陣は本当に子どもをあやすようなもんだったと思う。福嶋さんに高浦さんに佐野元国さん。佐野さんはすごくユーモアがあって練習は厳しいんだけど、いろんな練習方法をやってくれたり。試合前でもキャンプでもつきっきりで、宜野湾から宿舎のある那覇まで15キロくらいを一緒に走ってくれたりね。いろんな練習方法を考えてきてくれた。

5年目に大矢さんがバッテリーコーチで来て死ぬほどノックを受けた。宿舎やビデオ室に2人でミーティングをやったりね。ホントに一から教えてもらった。勘を養うということは常に言われた。よく言われたのが高速道路。今はETCだからそのまま通過できるけど、昔はチケット取ってお金払って、だった。瞬時にどこのレーンが一番早く空くか判断しろとよく言われた。

街を歩いててもよく人を見るようにしてた。あの人こっちに行くな、いやこっちだなとか。エレベーターでも3つあったら、どこが一番早く空くか、常に考えていなさい。キャッチャーには洞察力が必要なんだってね。

権藤さんには(横浜の)バッテリーコーチの頃からベンチで配球のサインを出してもらっていた。権藤さんならどう考えるんだろうって。いつも見てた。少しずつだけど権藤さんの考え方も分かってきたし、最後までこういう考えもあるんだって驚くこともあった。大洋に入団して中日では山田さん、落合さん、高木さんと10人以上の監督のもとでプレーした。運が良かったというか出会った人が本当に良かった。

自分は野球が仕事で、キャッチャーというのが仕事。その結果がたまたま、ここまで来た。昔はあいつはキャッチャーには向いてないとか、いろいろと耳に入ってた。いつか見とけって思ってた。キャッチャーじゃなかったらここまでやってない。今は右に比べたら左の手のひらが5ミリくらい大きくなってる。ずっとボール受けてきたから。これがオレの仕事。これからも変わらない。 

もう1回、日本一になりたい。負けて悔しい。それが原点。ベテランと言われるけど、自分では40代になってから身体の変化をあまり感じない。ただ、何時ガクッと来るか分からない。心が折れるかもしれない。チームに必要とされなくなるかもしれない。その3つが重なったら、いや重ならなくてもどれか1つが出てきたら辞める時。そう思ってやっている。(中日ドラゴンズ捕手)

<落合博満氏は「おめでとう」はまだ言わないよ>

祝福のコメントを求められても「おめでとう」はまだ言わないよ。もちろん、打者として1つの節目となる記録をクリアしたことは素晴らしいことだと思う。ただ、彼は2000本だけにこだわってプレーしてきた選手ではない。打撃だけではなく、捕手として守備での貢献が評価され、コツコツと試合に出続けてきた。安打数はその結果として付いてきた数字。本人にとっても、この記録は通過点でしかないんだろうと思う。

彼には安打よりも、強い思い入れがある記録がある。ノムさん(野村克也氏)が持つ最多試合出場記録(3017試合)だ。誰も抜くことができないと言われていた数字まで、あと200試合余りとなった。これからも、今まで通り1試合1試合を大切に。2000本に満足せず、誰も成し遂げたことのない大記録への挑戦を続けてほしい。

ノムさんの記録を超えて、次世代まで「この数字は誰にも抜けない」と長く語り継がれるようなところまで伸ばしていってほしい。その時になって初めて「おめでとう」と言わせてもらいたい。(当時日刊スポーツ評論家)

<野村克也元楽天監督>

谷繁にはいつも「監督の試合数を目指して頑張ります」とあいさつされる。2000安打もおめでたいが、私の通算最多出場記録(3017)を超える気持ちで頑張ってくれているのが頼もしい。捕手というポジションはグラウンドにおける監督。先発で出場を続けている姿には共感を覚える。最近は、谷繁の活躍で私の記録が引き合いに出されることが多い。ありがたい限りだ。

▼谷繁がプロ野球44人目の通算2000安打を達成した。捕手では野村(西武)古田(ヤクルト)に次いで3人目。初安打は大洋時代の89年4月11日広島1回戦(横浜)の川口からで、42歳4カ月の達成は宮本(ヤクルト)の41歳5カ月を抜く最年長記録。実働25年目は田中(日本ハム)の22年、出場2803試合は大島(日本ハム)の2290試合を大幅に上回り、ともに最も遅い到達となった。谷繁は横浜で1002本、中日で998本。史上3人目の2球団で1000安打の記録もあと2本に迫っている。

▼谷繁は99年の126本が最多で、チームの試合数を上回る安打を記録したことがない。シーズン130本以上が1度もない選手が、2000安打を記録するのは初めて。打順別では8番の1271本が最も多く、8番が最多安打の選手の達成も初めてだ。谷繁は打率最下位を最多の5度記録し、現在の通算打率は2割4分3厘。通算打率ランクの規定となる4000打数以上では、253人中の238位。もちろん、2000安打以上の打者では田中の2割6分2厘を下回る最低打率。打率は低くても、自慢の守備でレギュラーを守り続けて2000安打を達成した。

▼谷繁は5日のDeNA中村に1日遅れて達成。通算2000安打達成日が近かった例では昨年4月28日日本ハム稲葉→5月4日ヤクルト宮本の6日後を上回り、最も間隔が短かった。

※記録と表記などは当時のもの