日刊スポーツは2021年も大型連載「監督」をお届けします。日本プロ野球界をけん引した名将たちは何を求め、何を考え、どう生きたのか。ソフトバンクの前身、南海ホークスで通算1773勝を挙げて黄金期を築いたプロ野球史上最多勝監督の鶴岡一人氏(享年83)。「グラウンドにゼニが落ちている」と名言を残した“親分”の指導者像に迫ります。

     ◇   ◇   ◇

広島商3年の鶴岡は1931年(昭6)のセンバツで優勝し、米国に遠征している。南海でもハワイキャンプを経験。国際感覚を養ったことは、スカウティングにも生かされたようだ。

サウスポーの村上雅則(76)は、日本人初の大リーガーだが、その誕生を後押ししたのが鶴岡だった。61年のセンバツは柴田勲(のちに巨人)を擁した法政二が優勝したが、1年後輩の控え投手が村上。監督はのちにロッテで監督を務める田丸仁だった。

高3夏の大会後、鶴岡が山梨・大月にある村上の自宅に勧誘に来た。父清のもとには複数球団から電話が入っていた。母富子はプロ入りに反対。そんな時、鶴岡の“殺し文句”が、18歳の心にぐさりと刺さった。

「決め手になったのは帰り際の鶴岡さんの『もし南海に入ったら、アメリカに行かせてやるから』という言葉ですよ。母親も占いにいったら、関東より関西の球団のほうがいいと言われたらしいんです。野球というより、アメリカに行ってみたいと思ったんですね」

米国行きは口約束だったが、63年のプロ1年目(3試合登板、0勝0敗)を終えると、「野球留学」として渡米を許された。翌64年3月10日に新人2人と羽田発のパンアメリカン航空機に乗り、ホノルルでの給油を経てサンフランシスコ入り。1Aフレズノ・ジャイアンツでプレーし、「マッシー」の愛称がついた。

「9月1日からはメジャーのベンチ枠が25人から40人枠に拡大されるという。その時はだれが行くのかわからなかったが、ひょっとしたらということでした。その後、わたしが昇格することがわかって、慌ただしく荷物をまとめました」

フレズノからサンフランシスコ経由でニューヨークに到着。9月1日にメジャー契約を交わし、その日のメッツ戦で日本人初のメジャー登板を果たした。8回裏から1イニングを無失点。9月29日の本拠キャンドルスティックパークのコルトフォーティーファイブズ(現アストロズ)戦で初勝利。1年目は9試合登板で1勝1セーブだった。

「しばらく南海と連絡が取れなかったので、翌年のサインをして帰国しました。でもそれがこじれる原因になった」

村上を巡る南海とジャイアンツの「二重契約」は、日米両コミッショナーを巻き込む問題に発展した。しばらく村上の保有権は宙に浮いた形になったが、最終的に65年はシーズン途中の5月に再渡米し、その年は45試合(4勝1敗)に登板した。

「本当はもっと向こうでプレーしたかった。わが人生に悔いありです。でも鶴岡さんは約束を守ってアメリカに行かせてくれた。帰るときにも声を掛けてくれた。鶴岡さんに言われれば仕方がない。厳しかったけど温かい方でした」

66年に南海に復帰し、その後は阪神、日本ハムと計18年プレーした。自宅には鶴岡の写真が飾られ、2ケタ勝利の約束でプレゼントされたゴルフのクラブも大切にしまってある。【編集委員・寺尾博和】(敬称略、つづく)

◆鶴岡一人(つるおか・かずと)1916年(大5)7月27日生まれ、広島県出身。46~58年の登録名は山本一人。広島商では31年春の甲子園で優勝。法大を経て39年南海入団。同年10本塁打でタイトル獲得。応召後の46年に選手兼任監督として復帰し、52年に現役は引退。選手では実働8年、754試合、790安打、61本塁打、467打点、143盗塁、打率2割9分5厘。現役時代は173センチ、68キロ。右投げ右打ち。65年野球殿堂入り。監督としては65年限りでいったん退任したが、後任監督の蔭山和夫氏の急死に伴い復帰し68年まで務めた。監督通算1773勝はプロ野球最多。00年3月7日、心不全のため83歳で死去。

連載「監督」まとめはこちら>>