日刊スポーツの名物編集委員、寺尾博和が幅広く語るコラム「寺尾で候」を随時お届けします。

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初めて岡田彰布が阪神監督に就いた04年、日刊スポーツは「V2へ 岡田の挑戦」というタイトルの連載を掲載した。生え抜きで、幹部候補生として認められていた。1軍内野守備走塁コーチからの昇格は既定路線だった。

ただ前年の03年に星野仙一が劇的な優勝を成し遂げていた。18年ぶりの歓喜で虎フィーバーが起きた。球団に実利をもたらした「闘将」と称された“モンスター”の後継には重圧がかかったはずだ。

新人監督だった当時の岡田は「おれはピッチャーはよぉわからんからな」と打ち明けている。正直な人だと感じたのも覚えている。そして岡田はキャンプで自ら不得手といったブルペンにへばりついた。

特に野手出身の監督にありがちは、苦手なピッチャーのことは調整、起用法など投手コーチに任せるというタイプが存在することだ。岡田はそれをヨシとしないほうで、1年目からピッチャーの把握に力を注いだのだ。

岡田にスポットを当てた連載の筆者として記憶にあるのは、リリーフの安藤優也(現投手コーチ)の起用法に触れた取材だ。「今年は負けてるゲームでも安藤をつぎ込むよ」。それは勝ちパターンで起用した星野とは異なる方針だった。

その理由を岡田は現役時代の経験から得たものだと説明した。84年にセリーグ記録(当時)の77試合、セリーグ制覇、日本一の85年に58試合に登板したベテラン左腕リリーフ福間納を引き合いにだした。

「おれらはバックで『福間さん、またきよった』と思いながら守ってたんよ。負け試合でもマウンドに上がる姿を見てると、野手は意気に感じるもんよ。中西(清起)もおんなじよ。チームいうのはそういうことで機能するんよ」

さらに岡田は1年前から安藤をリリーフから先発に転向させることを決めていた。監督は「安藤は来年の先発のためにも投げさすことが必要なんや」と中継ぎで起用しながら、次の年の育成プランを描いた。

04年の安藤は全登板リリーフだったが、05年は先発に回って11勝(5敗)で優勝に貢献した。「JFK」だけが強調されるが、「リリーフ」に重点を置くプロセスで“オカダの考え”がはまった結果だった。

阪神監督に“再登板”した今年は開幕3連勝スタートだった。初戦は青柳からの継投、2戦目は延長12回で8人の必勝リレー、連勝していた3戦目は終盤に投げるリリーフを温存して逃げ切った。

どの球団も「守護神」の確立がカギを握る。今後チームを束ねるのに投打にわたってコーチ陣からの進言などアシストも必要だろう。キャリアをもつ最年長監督の挑戦。トップのかじ取りが浮沈を左右するのは、組織では定石となっている。(敬称略)