フリーアナウンサー生島ヒロシ(68)は、月曜から金曜まで、早朝5時からTBSラジオで、張りのある元気な声を響かせている。渡米後に、TBSの人気アナウンサーに。独立してフリーも、借金がかさみ、故郷は東日本大震災で被害を受けた。山あり谷ありのアナウンサー生活を、亡き母美ち子さん譲りの「まぁ、いいか」精神で乗り切った。生涯現役を誓う、若さの秘密を聞いた。

★朝5時から全開

生島ヒロシの朝は早い。午前4時までに起床。午前5時には東京・赤坂のTBSラジオのスタジオでマイクに向かう。最初から全開だ。

「スタジオに入って首を温める。おでこに冷却シートを貼る。足元をパネルヒーターで温める。体操をする。これでアッという間に声が出るようになる。すぐにトップギア。自分でもすごいと思う(笑い)」

番組が終わると2時間から4時間の睡眠を取り、午前11時には起きる。

「年を取るということは、折り合いをつけて生きていくということ。サプリメントは飲むけれど、薬を飲むほど悪いところはない。若い頃より疲れが取れるのが遅くなったけど、無理してやっていない。週末は地方に行くことも多い。でも、楽しみながらやってるからストレスは少ない」

仕事はアナウンサーだけじゃない。芸能事務所「生島企画室」会長として、自ら営業に回る。

「自分の番組のスポンサー企業に、局の営業と一緒にダイレクトに会いに行く。出演者でありながら営業をやり、プロデュースもやる。タレントを連れて、テレビ局へ売り込みにも行きます。気になった人には、すぐに電話をするようにしています。スポーツ選手であったりしても、躊躇(ちゅうちょ)せずに、すぐ電話します」

TBSを辞め、89年(平元)4月1日、消費税導入の日に実弟の生島隆社長(63)と2人だけで生島企画室をスタートさせた。

「TBSの入社試験の時から『日本の終身雇用制度は終わる。TBSの生島で終わりたくない』って言っていた。採用もされてないのに(笑い)。最初から独立のチャンスを狙っていました。当時は、テレビ界は景気がよくてね。辞めたら収入が、TBS時代の10倍になった。2年目に20倍、3年目に30倍」

★悩み眠れず

フジテレビや古巣TBSで帯番組を担当、在京キー局でレギュラーを持った。

「独立して10年くらいは順風満帆。だけど、僕は大きな後ろ盾がないから、切られる時はパッと切られる。局アナ時代からベルト番組を当たり前のようにやっていたから、それを失うことの大きさをよく分かっていなかった」

98年4月に、今も続くTBSラジオ「生島ヒロシのおはよう定食・一直線」が始まった。

「自分の中で“俺も終わった感”があった。今の言葉で言えばオワコン。フリーとしては、もうダメで『あの人は今』みたいな状況になると思っていたところに、ラジオの戦友が『朝5時からだけど』って声をかけてくれた」

始めてみるとラジオの楽しさを再認識したという。

「最初は『ラジオか…』と思ってたんだけど、1人だから、自分で回し役をしながら情報も発信しなくちゃいけない。ラジオは本当の知識がないと、絶対にリスナーは聞いてくれない。ちゃんと勉強しないとと思って、いろいろな資格を取り始めた。1人ですごく自由にできるし、最初は総スカンだったリスナーの反響もよくなってきた」

転機はピンチの後にやってくる。大手スポンサーが番組から撤退する時に、化粧品会社のDHCがつくことになった。

「話しているうちに、うちの生島企画室が広告代理店として取り扱うことになった。一時期はTBSラジオの広告の取扱額が、電通、博報堂、生島企画室…ですからね。自由な発想で、しゃべりだけじゃなく、いろいろなことができるんだと気が付いた。今でも、恩は忘れません」

2人で始めた生島企画室の所属タレントは、現在80人になる。だが、一時期は借金が10億円に膨らんだ時もあった。

「テレビにガンガン出ていた頃に、調子に乗った。借金して土地を買えば、1億円が1億5000万円になるという時代だった。借金すればするほどもうかると。今から20年ほど前。正直悩んだし、夜は眠れなかった。かといって、表に出るときは元気にならなければいけない。子供たちが中学に入ってお金が掛かるし、仕事も大変。そこに義母の介護が始まって三重苦だった」

ピンチを救ったのは、亡き母美ち子さんの教えだった。

「おふくろの『大丈夫、なんとかなるから』という教えに救われた。『まぁ、いいか。命まで取られるわけじゃない』と切り替えてね。その大変な時期に鍛えられた。今も時々、ハプニングがあるけど落ち着いてあせらずに対応できる」

★苦労が顔に出ず

タレント毒蝮三太夫(83)からはお褒めの言葉をもらった。

「蝮さんから『ヒロシは苦労が顔に出ないからいいね』って。『苦労してるんだっていうのが出たら、芸人はダメなんだよ』って。これは非常にうれしかった。蝮さんに大感謝です。耐えて耐えて、世の中なんて思い通りにいかない。年を取ればあちこち痛くなるけど、それを受け止めて『しょうがないか』と乗り越えて、生きていく。それをいいんじゃないのと思えるかどうかですね」

10億円の借金は、02年にデビューした所属タレント優木まおみ(39)が売れっ子になり、事務所に勢いがつき、数年前に返し終わった。

「まおみには感謝ですよね。彼女の努力、セルフプロデュース力には、本当に頭が下がります。お母さんになったけど、これからも彼女にはいろいろな形で頑張ってほしいし、協力していきたい」

今年の暮れには69歳。目標は生涯現役。元日本テレビのフリーアナ徳光和夫(78)が目標だ。

「番組をご一緒させていただいて、徳さんの人間性に引かれた。あ~、やっぱり、こうありたいと。現役を続けてるけど『路線バスの旅』で寝ながら稼げるんだからね(笑い)。理想っていうか、憧れですよね」

11年3月11日、東日本大震災では妹夫婦を亡くした。

「前月に亡くなったおふくろの遺骨を持って上京する当日でした。妹はおふくろを最後までケアしてくれたのに」

亡くなった人の思いも抱いて、これからも生きる。

「生涯現役でいて、頼られたら絶対にお役に立ちたい。若い人を伸ばしたりして、いままでお世話になったことへの恩返しをしたい」

古希を前に、生島ヒロシは今でも全開で走っている。

▼生島企画室所属の優木まおみ(39)

生島会長の好きなところは、いつも元気いっぱいで前向きなところです。18年前、初めて会った時は、遠くにいても声が聞こえる、腹式呼吸で話してるアナウンサーの人ってこんな感じなんだなと感心しました。最近の生島会長は、ニュースでケガとか手術とかの情報が多くハラハラしています。今後も私たちタレントのお父さんとして、明るく元気に支えてください。

◆生島(いくしま)ヒロシ

1950年(昭25)12月24日、仙台市生まれ。71年に渡米。75年カリフォルニア州立大ロングビーチ校ジャーナリズム科卒。76年TBS入社。89年にフリー。現在のレギュラーはTBSラジオ「生島ヒロシのおはよう定食・おはよう一直線」(月~金曜午前5時)。ファイナンシャルプランナーなどの資格を持つ。趣味は健康、ゴルフ。空手黒帯。長男は俳優生島勇輝(35)次男は俳優生島翔(34)。

◆TBSラジオ「生島ヒロシのおはよう定食・一直線」

「おはよう定食」は月~金曜午前5時から30分間。「おはよう一直線」同午前5時30分から1時間。「聴くスポーツ新聞」がモットーで、ニュース、スポーツ、健康、シニアライフ、介護がキーワード。

(2019年9月8日本紙掲載)