トルシエジャパンの主軸の1人、元日本代表MF小野伸二(42=札幌)が恩師との4年間を振り返った。年代別の日本代表から師弟関係が続いた。99年ワールドユース(現U-20W杯=ナイジェリア)での準優勝、2大会連続出場となったW杯では、02年の日韓大会で初の決勝トーナメント進出に貢献。厳しい指導で自らを導き成長させてくれた指揮官へ、感謝とともに思いを語った。

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小野は忘れていない。トルシエ氏から初めて受けた指導の日のことを。98年11月、福島でのU-21日本代表合宿で初対面した。

小野 「海外、世界とはこういうものだっていうのをまず教えてくれた。1対1の当たり方などを学んだ。「もっともっと激しくやれ!」とげきを飛ばされた。着ていたビブスがビリビリに破れるくらいだった。規律についても厳しく指導してくれた。ありがたかった」

18歳で98年W杯フランス大会でA代表デビューを果たし、ユース世代の中心選手だった。99年ワールドユース選手権ではU-20日本代表の主将を任された。結果は準優勝。その大会期間中には、孤児院をチーム全員で訪問した。若い選手にとって過酷な環境を知り、肌で感じることは、結束の強化につながった。

小野 「ナイジェリアの情勢とかを知り、自分たちが置かれている環境が当たり前じゃないってことを体験させてもらった。自分たちの(サッカーに集中できる)環境は幸せなんだって実感させてもらえた。事前合宿地のブルキナファソのホテルは水道からさびた色の水が出たり、部屋の中にヤモリは普通に走っていたり。最初はびっくりしたけど、生活していくうちにだんだん慣れて、選手全員1つになれたと思う」

トルシエ氏と過ごした4年間で、小野は大きな決断をする。海外挑戦だ。2度目のW杯まであと1年の01年。オランダ1部フェイエノールトへ移籍した。世界を教えられ、A代表でプレーするようになり、感じるようになった違いが突き動かした。

小野 「最初は日本にいても高い意識を持ってやれば、そんなに変わらないだろうと思っていた。けど海外の選手たちと日本代表として戦う時、やはり何か違うと。世界に出ないといけないとすごく感じた。新しい世界を見られるチャンスだなって、すごくワクワクして行った」

日本を初の決勝トーナメント進出へ導いた手腕。所属チームでは主にボランチを務めていた小野は、トルシエ氏に左サイドで起用される。その采配でも新たな世界を見ることになった。

小野 「僕は結構自由を与えられていた。3-5-2の左サイドに僕みたいな選手を置くってことが新しい。両サイドはやっぱり運動量が多くて突破していくタイプが当たり前なもの。左センターバックに中田浩二がいて、守備のところは彼に任せていて、攻撃に専念させてもらった。戸惑いはなかったけど、トルシエさんも賭けに出たなって思った」

20年がたった。日本サッカー界の発展も感じている。海外移籍が当たり前になった。欧州リーグではフランクフルトDF長谷部誠とMF鎌田大地が、小野以来20年ぶりの日本人制覇を達成した。

小野 「素晴らしいことだと思う。日本人が2人所属するチームが勝ったことはすごく大きい。簡単に海外に行けるようになった。それだけ個人個人の能力が上がったということかもしれない」

今年43歳になる。J1札幌では最年長として、チームの精神的支柱となっている。

小野 「02年からあっという間に月日がたった。もう20年なんだという感じ。サッカーも世界情勢も、いろんなことが変わったけど、そのなかでもまだ自分自身がサッカーに関わって、プロの世界でできていることはすごく幸せなこと」

多感な10代の時に、トルシエ氏と出会い、濃密な時を過ごしたことは、糧となり、今にいきている。【保坂果那】

◆小野伸二(おの・しんじ)1979年(昭54)9月27日、静岡・沼津市生まれ。清水商から98年に浦和入り。01年にフェイエノールトへ移籍し、02年UEFA杯(現欧州リーグ)で日本人初優勝。06年に浦和に復帰。その後、Jリーグやドイツ、オーストラリアでプレーし、21年に札幌復帰。W杯は98、02、06年の3大会出場。国際Aマッチ56試合6得点。J1通算206試合29得点。175センチ、74キロ。家族は夫人と2女。

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