コロナ禍の特別なシーズンとなった今季、川崎フロンターレは圧倒的な強さで、首位を独走し、4試合を残しての最速優勝を飾った。 社名を「富士通川崎スポーツマネジメント」から、チーム名と同じ「川崎フロンターレ」に変更してから20年。スポーツの根付かない街といわれた川崎で愛されるクラブに進化した。社名変更を決断し、強豪クラブの礎を築いた武田信平元会長(現日本アンプティーサッカー協会理事長)の地域密着への思いを「川崎の街がブルーになった」と題して3回連載する。  

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川崎市内の商店街にはフロンターレカラーの旗がなびき、試合日に等々力へ向かう道はユニホーム姿のサポーターで埋め尽くされる。川崎の街は、この20年でブルーに染まった。川崎Fの礎を築いた武田信平元会長は「昔はいませんでしたから。名が売れていないと、家からユニホームを着てスタジアムに行くのが恥ずかしい。スタジアムで着替えている人は、けっこういたんですよ」と懐古する。

川崎の街を変えた立役者は、武田氏の他にもう1人いる。01年から約12年にわたって川崎市長を務めた、阿部孝夫氏だ。川崎といえば、工業地帯やギャンブル、歓楽街を連想する人が多かった。「文化的なものがあまり見えない街だった。それを文化都市にするのが彼の願い。ブルーの街にしようと、方向性が一致したんですよ」と武田氏。2人の思いが重なって、街に色が生まれていった。

最初は人が集まらなかった年始の商店街あいさつ回りは、今や引っ張りだこになった。選手が進んで地域のイベントに立ち、地元の人々と交流を深める姿が印象的だ。かつては「ファンサービスをしすぎるから勝てない」とやゆされたこともあった。それでも武田氏は「ファンサービスは地域密着と似たもの。勝っても負けても、お客さんが『次、頑張ろう』と言ってくれるチームじゃないといけない」と、方針をぶらさなかった。その結果、地元に愛される強いチームを生んだ。

20年という時間の中で、フロンターレは街のシンボルに成長した。武田氏は「(川崎市が)我々を使ってくれたんです。ちゃんと利用してくれたことで、我々の知名度もどんどん上がっていった」と、川崎市への感謝も忘れない。街を愛し、街に愛されるサッカークラブ。フロンターレと川崎市の関係には、Jリーグの理想が詰まっている。【杉山理紗】(おわり)