スポーツ百景

不沈艦ハンセン ラリアット誕生秘話、3度の大手術

長くトップ外国人レスラーとして日本のリングに君臨したスタン・ハンセンさん(米国)が引退して今年で20年になる。

スタン・ハンセン氏(2019年11月15日撮影)
スタン・ハンセン氏(2019年11月15日撮影)

1975年(昭50)の初来日からラストファイトとなった2000年(平13)10月28日の全日本プロレス日本武道館大会まで四半世紀、ジャイアント馬場、アントニオ猪木、ジャンボ鶴田、天龍源一郎、三沢光晴ら日本のトップレスラーと、数々の名勝負をプロレス史に刻んできた。

昨年11月、故ザ・デストロイヤーさんの追悼興行で来日した彼を、約30年ぶりに取材する機会に恵まれた。現在の暮らしぶりから、現役時代のエピソード、日本のプロレスへの思い、そして、あの一世を風靡(ふうび)した必殺技『ウエスタン・ラリアット』誕生秘話まで、じっくりと話を聞いた。

◇   ◇   ◇

現役時代と同じテンガロンハットをかぶったハンセンさんは、取材中ずっと柔和な笑顔だった。リングに別れを告げて18年。19年8月には70歳の古希を迎えた。目尻を下げて穏やかに語る姿に、あのたけだけしい“不沈艦”の片りんはなかった。

「週に5、6回はジムに通って、自転車をこいだりしています。それから日本人の妻が心臓外科の看護師をしているので、私が代わりに毎日食事の準備をします。昔は肉ばかり食べていましたが、今は週に1、2度ほどで、魚を週2、3度食べるようになりました。ベジタリアン(菜食主義者)ではありませんが、野菜もすごく食べるようになりました。いい生活です」

現役時代は195センチ、140キロの巨体を生かした桁外れのパワーとタフネスで、日本人レスラーたちの高い壁となり、その妥協のない全力ファイトは日本のファンからも支持された。一方で長い間、肉体を酷使し続けた代償は決して小さくなかった。

引退直後に2度の大手術を受けた。1つは背中の腫瘍の除去手術。マットにたたきつけられ続けた影響でできた背中の腫瘍が、脊椎を圧迫して体の一部がまひしていたためだ。もう1つが関節が摩耗して、骨が砕けていた両ひざに人工関節を入れる手術だっだ。幸い日常生活を送れるまで回復したが、代償はそれだけではなかったという。

「実はその後、両肩も手術して人工関節に取り換えました。これから右手首も手術する予定です。でも、それ以外は今のところ健康です。気分はいいですし、元気ですよ。たぶんね(笑い)」

アメリカンフットボールの選手だったハンセンさんは、ウエスト・テキサス大を卒業した72年、NFLのボルティモア・コルツに入団したものの、ほどなくして解雇された。ちょうどその頃、大学の先輩で日本でも人気レスラーだったテリー・ファンクの誘いを受けてプロレスに転向した。

75年、26歳の時に全日本プロレスに参戦するため初来日した。77年には新日本と契約してアントニオ猪木の宿敵としてトップ外国人レスラーに君臨。81年の全日本復帰後は馬場、鶴田、天龍、三沢ら日本の歴代王者らと名勝負を繰り広げた。どの試合も激しく、白熱した。あのタフネスとパワー、無尽蔵のスタミナはどうやって身に付けたのか。

「自分のストロングポイントは実はパワーではなく持久力でした。だからパワーより心肺機能を高めてスタミナをつける練習を重視していました。毎日、朝食前にホテルの階段を上り下りするトレーニングを続けていたのです。それが私のプロレス人生を支えてきたのだと思っています。あの(225センチ、230キロの大巨人)アンドレ・ザ・ジャイアントとの対戦前だってパワー系の特別なトレーニングはしていません。試合の流れの中でチャンスをうまくつかもうと考えていました」。

そのハンセンさんのファイトスタイルは、見事に日本のプロレスにマッチした。当時、いわゆるWWF(現WWE)に代表されるキャラクターやストーリーを重視するエンターテインメント色の強いアメリカンスタイルのプロレスは、桁外れのパワーや、筋骨隆々の肉体などの分かりやすさが重宝されていた。ハンセンさんが目にした日本のプロレスはまったく異質だったという。

「日本のプロレスは特別でした。ファイトスタイルも試合運びも異なりました。他の国よりもスピードがあり、フィジカルも強かった。選手はすごく一生懸命トレーニングをしていたし、試合内容もとてもタフでした。多くのアメリカ人レスラーは、パワーがあっても、日本のプロレスに対応できるだけのスタミナがなかった。だから日本で戦うことはとても難しかった。これまでの長い歴史の中で、海外から日本にきて成功したレスラーは15人くらいしかいないと思います。それだけタフなリングでした」。

ハンセンさんも自分のスタイルを「ジャパニーズスタイル」に適応させたという。そして、いつしか日本人をもしのぐスタミナとタフネス、スピードでハンセンさん自身がジャパニーズ・スタイルのけん引車になった。

「私は最初は(エンターテインメント色の濃い)アメリカンスタイルでしたが、彼らとの戦いを重ねて、あの激しい日本のプロレスに変わっていったのです。あの時代、日本のレスラーたちみんなが、あのスタイルを好んでいました。だからトレンドになった。私もその力になれたと思っています」

馬場、猪木、鶴田、天龍、三沢、小橋……日本のリングで一時代を築いたトップレスラーとの幾多の激闘は、世代をまたいで日本のプロレスファンを熱狂させ続けた。それはハンセンさんにとっても貴重な財産になっている。

「みんなスタイルが違うし、試合運びも違う。だからそれぞれ違う思い出があり、すべて懐かしいメモリーだ。トップ選手はみんな強い技、ストロングポイントを持っていました。例えば馬場には大きくて強い足があった。鶴田にはジャンピング・ニーパットがあった。もちろん天龍にもありましたよ。私はいつもそれを気をつけながら戦っていました。だから今の選手も自分のスタイル、自分のストロングポイントを見つけて、そこにフォーカスすればいいと思います」。

そしてハンセンさんの代名詞になったのが必殺技ウエスタン・ラリアット。黒いサポーターを巻いた左腕をフルスイングして、相手の首にたたきつける豪快なオリジナル技は、一撃で失神させる破壊力で一世を風靡(ふうび)した。

「今では禁止されているアメフトの(相手の突進を止める)タックルをヒントに考えました。プロレスでは私が最初に使った技だと思います。アメリカではクローズラインとも呼ばれますが、故郷のテキサス州の言葉だったラリアットと名付けたのです」

野球に熱中した2人の息子は、プロレスラーにはならなかった。06年には兄弟そろって米国高校選抜の一員として来日。長男のシェーバーさんは内野手として09年に米ドラフトでマリナーズから6巡目指名されるほど実力があった。その縁でハンセンさんも地元コロラド州ホッチキスで息子が所属する少年野球チームの監督をしていた。今ではそんな父親業からも卒業して、孫に囲まれた生活を満喫しているという。

「毎日、1時間半ほどのトレーニングを終えてから、息子の2人の娘を幼稚園に迎えに行きます。その“おじいちゃん業”が、今の私の一番の仕事なんです」

【首藤正徳】(ニッカンスポーツ・コム/スポーツコラム「スポーツ百景」)

天龍源一郎(右)に強烈なラリアットを見舞うスタン・ハンセン(1988年3月27日撮影)
天龍源一郎(右)に強烈なラリアットを見舞うスタン・ハンセン(1988年3月27日撮影)
スタン・ハンセンお得意の「ウィ〜!」のパフォーマンス
スタン・ハンセンお得意の「ウィ〜!」のパフォーマンス

88年入社。バトル、五輪、テニス、サッカーなどを担当。五輪は92年アルベールビル冬季大会、96年アトランタ大会を現地取材。08年北京大会、12年ロンドン大会は統括デスク。サッカーは現場キャップとして98年W杯フランス大会、02年同日韓大会を取材。現在は東京五輪・パラリンピック準備委員。

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