石原裕次郎

お焚き上げの後、渡哲也と快気を喜ぶ石原裕次郎。
お焚き上げの後、渡哲也と快気を喜ぶ石原裕次郎。

昭和を代表する大スター石原裕次郎。「俺の100本目の主演作品は石原プロで作りたい」。1981年ごろから準備を進めていたが84年に病に倒れ、夢はかなわぬままに87年に亡くなった。64年に石原プロ設立、68年「黒部の太陽」で本格的にプロデューサーとして映画製作に乗り出したが、5社協定枠に苦しめられた。三船プロと共同で製作し、8億円の高配収を上げた。メガホンを握った熊井啓監督が「裕次郎さんは5社に乗り込んで社長とやり合ったり、製作費を作るために歌謡ショーで全国を回ったり」の死闘ぶりを話してくれた。監督によると「オレの一生の――」部分が入って初めて裕次郎語録ノーカット版になるという。(/_;)

<芸能・1993年7月15日掲載>