プレーバック日刊スポーツ! 過去の6月19日付紙面を振り返ります。1995年の1面(東京版)は関谷正徳が日本人として初めてルマン24時間耐久レースを制した記事でした。

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【ルマン(フランス)18日】関谷正徳(45)が、日本人として初めてルマン24時間耐久レースを制した。関谷の乗るマクラーレンF1・GTRは9番手からスタート、22時間10分すぎに首位を奪い逃げ切った。1973年(昭48)に生沢徹、鮒子田(ふしだ)寛がシグマ・ロータリーに乗ってルマンに初挑戦して23年目の悲願達成だった。

◆第63回ルマン24時間決勝成績◆

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順位 車番 マシン ドライバー 周回

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(1)(59)マクラーレンF1GTR 関谷正徳組 299

(2)(13)クラージュC34LMポルシェ アンドレッティ組 298

(3)(51)マクラーレンF1GTR A・ウォレス組 297

 涙で揺れる視線の向こうで、栄光のチェッカーフラッグが揺れていた。目じりに深く刻まれた関谷のしわに、熱いものが伝わっていった。ルマン挑戦9度目。「1位と2位がこんなに違うものなんて。信じられない」。91年にはマツダが日本車として優勝を飾ったが、日本人ドライバーは92年の関谷の2位が最高だった。73年に生沢、鮒子田が日本人として初挑戦してから23年目にして悲願を達成した。

 予選は9位。中盤からトップ争いに顔を出し、同じマクラーレンのウォレス組と一騎打ちとなった。2位でじっと相手の出方をうかがい、スタートから22時間10分すぎに、トップを奪取した。唯一の不安はトランスミッションだったが、レース前に絶対壊れないように走ろうと3人のドライバーが細心の注意を払っていた。逆にウォレス組は、クラッチにトラブルが発生し、脱落していった。耐久レースの怖さが最後に出た。

代わって2位に上がったクラージュ・ポルシェのアンドレッティ組も、ターボの不調でペースが上がらない。最後のハンドルを握ったJ・J・レートがトップを守り切った。2位との差は3分5秒。一周の差もなかった。

 チームメートのレート、ヤニック・ダルマスは共にF1経験者の上、テストにも参加していなかった関谷は、予選で初めてマシンに乗った。「乗り切れないんじゃないかと不安を持たれていたよ」と関谷は打ち明ける。しかし、ルマンに関しては関谷の方が一枚上だった。雨が上がり始めた19時間すぎ、チームは雨用から溝の浅いタイヤを選択。無理に飛ばせば、いつでもスリップする状態。マシンに乗り込もうとした関谷に、レートが「代わろうか」と声をかけた。間髪入れず関谷は答えた。「雨のルマンを君は知っているのかい」。関谷はそのままシートに座り、トップとの差を大幅に縮めた。「グリップがない状態で走ったのは、初めての経験だったけど、自分のやってきたことを、やっただけ」と言い切った。

 ルマンは関谷にとって思い出深い場所だ。87年のルマン決勝の前日(6月12日)。チームのサービスサポーターの葉子夫人(34)と教会で結婚式を挙げた。馬車で披露宴へ移動し、ルマン市長の結婚証明書が手渡された。その葉子夫人は今回、結婚してから初めてルマンを欠席した。8月に第2子が誕生するからだった。前日(17日)ルマンへ送ったファクスには「お父さんらしいレースをして、元気に帰ってきてください」としたためた。まさに関谷らしい、しぶといレースで優勝を勝ち取った。ルマンは二人、いや4人にとって生涯忘れられない地になった。

 ◇日本とルマン 今年の日本車はプロトタイプではマツダスピードから1台、GTはホンダ3台、トヨタ2台、ニッサン2台が出場。日本選手は関谷をはじめ、歌手の近藤真彦ら合計16人が出場した。日本人出場最多は寺田陽次朗の15年連続17回。過去日本車の最高位は91年マツダの優勝。日本選手最高位は92年の関谷の2位。

 

 ◆関谷正徳(せきや・まさのり) 1949年(昭24)11月27日生まれ、静岡県出身。71年富士500キロでデビュー、82年英国フォーミュラアトランティックに参戦、85年ルマン初挑戦(総合12位)。ルマンは今年で9回目の出場となるが、トヨタから出た92年には2位、93年には4位となっている。国内では昨年からJTCCに参戦、初代王者になっている。  

※記録や表記は当時のもの