新型コロナウイルス感染拡大で東京オリンピック(五輪)は延期となった。選手が来夏の祭典で獲得を目指す五輪メダル。各競技でどのような歴史が刻まれてきたのか。「日本の初メダル」をひもとく。

1904年セントルイス大会から実施されたボクシングにあって(1912年ストックホルム大会のみ実施なし)、日本人の首にメダルがかかるのは半世紀を待った。1960年ローマ大会で、田辺清が銅メダルを獲得した。ライトヘビー級では後の世界王者ムハマド・アリ(当時はカシアス・クレイ)が金メダルを手にした大会。日本勢としては1929年アムステルダム大会から計22人の代表を送り込み、入賞も初めての快挙だった。

3回戦までいずれも判定勝ち。準決勝はシフコ(ソ連)と対戦し、1-4の判定で敗れた。しかし、明らかに内容で上回り、会場からは「ジャポネ、ウノ(日本人が一番だ)」と、やじが飛んだ。米国人ジャッジも抗議したが、結果は覆らなかった。当時は五輪が発祥した欧州に優位な判定が当たり前だったという。決勝には進めず、銅メダルで大会を終えた。

当時は中大2年。五輪直前の日刊スポーツの企画では、作家の三島由紀夫と対談。初対面も臆することなく、鶏料理を食べながら話が弾んだとある。その肝っ玉の大きさが、大舞台でも地力を発揮できた要因だったが、日刊スポーツ新聞社との縁は続きがある。大学卒業後に入社して、半年間籍を置いている。

退社の理由はプロ転向。「世界を狙う」とペンをグローブに持ち替えた。63年12月にデビューし、無敗のまま日本フライ級王座を2度防衛。67年2月には、世界王者オラシオ・アカバロ(アルゼンチン)とのノンタイトル戦も制し、5カ月後の世界挑戦が決まった。プロ4年目、21連勝(1引き分け挟む)。この試合からコンビを組んだ名トレーナー、エディ・タウンゼントとの息も合った。新王者誕生を疑う者はいなかった。

だが、悲劇は突然訪れた。世界戦に備えた静岡・伊豆合宿で目の異変を感じると、その後に網膜剥離(はくり)を起こした。回復することはなく引退を余儀なくされ、世界王者の夢は立たれた。

アマとプロ。両方で日本ボクシング界の先駆者となった男には、これも両方のリングで「悲運」が付きまとった。