平川佐治子さん(73)が喜んだ。息子は鍵山正和コーチ、孫は優真。2人のオリンピアンを育てた。

まず正和氏を、小学2年生のころスケート教室に送り込んだ。「私がすごくスケート好きで」。当時シングルマザーで、個人レッスンの月謝も3万円と高かったが「足を入れちゃうと抜けられない。いい成績を息子が取れば夢を見ちゃって」。衣装のスパンコールを付ける深夜の作業が楽しかった。

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「絶対、オリンピックに出すんだ」。素人だったものの口を出さずにいられない。「何百回、スピンしなさいとか。すごく熱心に言うだけ言ってました」。92年アルベールビル大会に出場が決まった時「お金がかかる! って思いました」。当時は愛知工大の壮行会で集まった祝い金を渡航費用に充てる時代だった。

94年リレハンメル五輪にも出た後、正和氏は引退。9年後に優真が生まれて5歳から指導してきた。「2回転半を跳ぶのにも3年もかかったし、息子と違って孫はインターハイに出る程度の選手かな」。ジャンプよりスピンが好きで常にクルクル回っていた優真は楽しんでくれれば良かった。

3人の生活が劇的に変わったのが18年6月だった。正和氏が指導先の中京大で倒れ、愛知県内の病院に救急搬送された。脳出血だった。当時の鍵山父子は横浜市で2人暮らし。優真は初の国際大会となるアジア杯を控えていた。佐治子さんは“母親”になる覚悟を決めた。横浜に住み込み、優真の生活をサポートした。

「大変でした。パスポートを取って上げたり、お見舞いに行ったり」。朝4時に起こして早朝練習へ送り出し、隔日で愛知の病院に日帰りで通った。週1回ほど優真も病院へ同伴した。「お互いに会いたがっていて。正和は優真の顔を見ると元気になったんです」。

その生活が5カ月ほど続き、退院した日に「寂しくなかったの?」と15歳の優真に聞いた。「何で、いま聞くの?」-。中学3年生は我慢していた。「涙が出ました」と佐治子さん。支えて上げたい。現在、進学を希望する中京大に拠点を移した孫と息子を再び名古屋市内で世話する日々だ。

練習から帰ってきても部屋まで来ないと「車の中で正和が怒っているんです、優真を。長い時は2時間ぐらい」と笑う。表現力にも定評がある優真は「お風呂でガンガン音楽をかけて1人で歌ってます。横文字の何とか」と笑い飛ばした。

国内の試合はかかさず応援するが、北京五輪に一般客は入れない。映像で快挙を見届けた。「スケーティングもジャンプも、表情もそっくり。でも優真の方が断然うまいですね」。言葉通りの好演技で銀メダル。正和コーチの涙にもらい泣きし、優真の笑顔につられてまた笑った。【木下淳】