北京オリンピック(五輪)スピードスケート男子500メートルは、1998年長野五輪の清水宏保以来となる日本勢の金メダルが期待される。今季、彗星(すいせい)のごとく現れた森重航(21=専大)も最有力候補の1人。昨年10月の全日本距離別選手権、同12月の五輪選考会でともに初優勝し、初参戦したワールドカップ(W杯)でも優勝を経験した。19年7月、母俊恵さん(享年57)が死去。亡くなる4日前に残した「スケート、がんばれ…」という最期の言葉は胸に刻まれている。初五輪で世界の頂点を目指す、森重の家族の物語。【三須一紀】

■北海道東端の町でウワサ「とんでもない保育園児」

とんでもない保育園児がいる-。北方領土の国後島からほど近い北海道東端、別海町の野外リンクでそんなうわさが立った。休日に母のおにぎりを持って一日中スケートを滑る、年長の森重のことだ。町役場がある中心街から約20キロ離れた上風連(かみふうれん)地区にある1周200メートルの小さなリンクを思う存分、滑っていた。


1949年(昭24)ごろに創業した乳牛などを取り扱う牧場「森重ファーム」に、8人きょうだいの末っ子として生を受ける。キタキツネやタンチョウが生息する大自然に囲まれながらのびのびと育った。牛へのミルク、餌やりを手伝い、その様子が農協のポスターに採用されたこともある。

農協のポスターモデルに選ばれた時の森重航。父誠さんはティッシュケースに入ったポスターを持ち続けている
農協のポスターモデルに選ばれた時の森重航。父誠さんはティッシュケースに入ったポスターを持ち続けている
スピードスケート北京五輪代表選考会 男子500メートルで優勝した森重(撮影・菅敏)=2021年12月29日
スピードスケート北京五輪代表選考会 男子500メートルで優勝した森重(撮影・菅敏)=2021年12月29日

小学生時代、町営の天然リンクに氷が張らない夏場は野球や陸上に取り組んだ。小学6年では釧路市で行われた陸上100メートルの大会で優勝。父誠さん(68)は「なんぼか運動神経は良かったな」と末っ子の幼少期を思い浮かべた。


小学校で配られたスケート少年団の募集プリント。「やりたい」とすぐさま応募し、スケートにのめり込んだ。夏場の休日練習ではトレーニングもかねて約20キロの道のりを自転車で通ったこともあったが、所属し続けた中学生までほぼ毎日、両親が交互に車で送迎した。


中学3年の頃、母俊恵さんがある大会へ送迎した釧路市への道中。「車に鹿がぶつかってね。フロントガラスが割れたままで帰ってきた」と誠さん。道路脇にフェンスが整備されていなかった当時は「結構、鹿にぶつかっていた人も多かった」という。


釧路へは片道1時間半、ナショナルトレセンがある帯広へは3時間半もかかる。野生動物も冬場の雪道にも骨が折れたが、息子が好きなスケートに没頭する姿を目にすると、疲労も吹き飛んだ。


俊恵さんは少年団の父母会にも積極的に参加。年末恒例の合宿ではカレーを作り、町内で行われる大会では昼食にうどんを出した。

■中学新記録、親子3人で撮った最期の写真

中3で「全中2冠」を達成、中標津空港で横断幕を前に記念撮影する左から父誠さん、森重航、母俊恵さん
中3で「全中2冠」を達成、中標津空港で横断幕を前に記念撮影する左から父誠さん、森重航、母俊恵さん

「全校生徒が15人程度」(誠さん)だった上風連中3年時、全国中学大会の500メートルを中学新記録で制し、1000メートルと合わせて2冠を達成。牧場経営には休みがないため、大会応援は両親のどちらかしか行けない。この時、現地にいた誠さんは「中学新記録というアナウンスを聞いたとき、もう鳥肌だったよね」と目を細めた。


中標津空港に戻ると俊恵さんと、中学の仲間による寄せ書き入りの横断幕が出迎えた。受け取った花束と胸に輝く2つの金メダル。母と父は地元のヒーローになった愛息の両脇に寄り添い、横断幕が隠れないよう中腰で記念撮影をした。


これが親子3人で撮った最期の写真になった。


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12年、俊恵さんは乳がんを患った。森重が小学6年の頃だ。手術は成功。回復後も息子の練習送迎や遠征に帯同した。


高校は10年バンクーバー五輪の男子500メートルで銅メダルの加藤条治を輩出した山形中央高に越境入学。離ればなれの生活になっても、インターハイは3年連続で俊恵さんが現地に駆けつけた。


誠さんは高校3年のインターハイから戻った19年1月の俊恵さんの様子を、悲しそうに振り返った。「調子が芳しくなくて入院したら医者から『もう長くない』って。あちらこちらに転移しちゃってて。骨にもね。でも肝臓に転移したのが大きかった。全身に回っちゃうから」。


母の病気について「高校時代は何も聞かされてなくて、重症化してから聞いた」という森重は同年4月、専大に入学。首都圏に拠点がある学業とスケートの練習に多忙を極め、遠く離れた故郷にはなかなか帰れなかった。それでも1度、スケジュールの合間を縫って帰郷。「次に帰って来られるのは夏休みかな」と言うと、母は「もう帰らないでいいから、スケートを頑張りなさい」と告げた。


入退院を繰り返したが6月、体調がひどく悪化し、町内の病院に入院。それでも「航の誕生日までは生きたい」と気力を振り絞った。

■19歳の誕生日、受け取ったメッセージ

7月17日。森重、19歳の誕生日。ほとんど話すことができないほど病状が悪化していたが、誠さんは聞いた。「誕生日だから電話するか」。うなずく俊恵さん。携帯電話を鳴らすとしばらくして応答した。「ほら、航だぞ」と携帯を妻の耳元にそっと当てる。俊恵さんは、通話口に声を絞り出した。


「スケート、がんばれ…」


苦しくてもうはっきりとは、しゃべれない。それでも森重は確実に受け取った。母の命を懸けた言葉を。そして、涙声が電話口から病室に漏れた。


「2日前からほとんど、しゃべれなかったからね。よく言えたなって」と誠さん。それが本当に、最期の言葉になった。4日後の21日、俊恵さんは旅立った。息子への深い愛情を残して。

北京五輪派遣選手に選ばれ、会見で抱負を話す森重航(撮影・菅敏)=2021年12月31日
北京五輪派遣選手に選ばれ、会見で抱負を話す森重航(撮影・菅敏)=2021年12月31日

森重は振り返る。「頑張らなきゃと、強く思った。その年からスケートの成績がどんどん伸びていったんです。母が亡くなりスケートに懸ける思いが大きくなった」。


インターハイに3年連続で見に来てくれた高校時代は成績が伸び悩み「良い成績を見せてあげられなかった」との思いがある。「病気して手術したり通院したりの母に、なるべく早く活躍した姿を見せてあげたいと思っていた」。


五輪にも気負わない。「初めて」にも甘えない。命のはかなさを知っているからこそ「オリンピックに、もう1度行けるとは限らない。今を、全力でやっていきたい」。21歳と若いが「五輪選考会をトップで通過したからには、金メダルは必須だと思っている」と覚悟が固まりつつある。


保育園の年長で初めて氷に立ってから今年で16年。両親ときょうだいの支えがあって、北京五輪のスタートラインに立つ。


「スケート、がんばれ…」


母が命を賭して込めた思いを、北京の氷に解き放つ。


◆森重航(もりしげ・わたる)2000年(平12)7月17日、北海道別海町生まれ。上風連中3年時に全中の男子500メートルを中学新記録で制し、1000メートルと合わせて2冠。山形中央高では18年に全国高校選抜で500、1000メートルで2冠。19年に専大進学。今季初めてW杯に参戦し、昨年12月のW杯ソルトレークシティー大会で500メートル初優勝。記録は33秒99で新浜立也に次ぐ日本勢2人目の33秒台となった。

森重航の父誠さん=21年11月12日
森重航の父誠さん=21年11月12日
北海道別海町のにある森重ファームの牛
北海道別海町のにある森重ファームの牛
北海道別海町の上風連地区にいたタンチョウ
北海道別海町の上風連地区にいたタンチョウ