サッカー界、スポーツ界で最も被災地を回ってきた自負がある。J1ベガルタ仙台、J2モンテディオ山形のヘッドコーチを歴任した手倉森浩氏(53)。13年からJFA(日本サッカー協会)復興支援特任コーチとして、16年からは東北の育成年代の指導責任者を兼ねて、活動を続けてきた。あの日、津波に襲われた沿岸部などへの訪問は多い年で年間300日超。誰よりも身をささげてきた。

初めて訪れたのは宮城県名取市の閖上地区。数多くの遺体収容に携わった消防士から「(サッカー界の)お前に何かできるのかよ」と怒鳴られたことは10年たっても思い出す。最初は指導しなかった。「現地の先生も、指導することでストレス発散しているように感じた。それは奪えない」。2、3回と重ねて足を運ぶうちに子供が笑顔を見せ、経験を語ってくれるようになった。「押しつけずに、寄り添おう」。徐々に教えを請われるようになった。

高級外車からエコカーに買い替え、初年度は地球1周分に相当する4万キロを走った。昨年こそコロナ禍で激減したが、7年間で約22万キロ。のべ1000を超えるチームを教え、回った市町村は岩手、宮城、福島の被災3県の計127自治体のうち100を超えた。要望を聞いては協会と掛け合い、ゴール寄贈やグラウンド整備の予算を確保した。

住友金属鹿島(現J1鹿島)時代は、神様ジーコに怒鳴り返したこともある武闘派。指導者としても時には鬼となったが、支援活動を通して「人間性が180度、変わった」という。「昔はできないことを怒ってしまったが、今は褒めることしかしない。特に4種(小学生)は、気持ち良くプレーさせた時ほど伸びる」と自主性を尊重している。

仮設住宅が立っていたグラウンドも段階的に回復。15年には震災後初めて沿岸部で大会を開いた。スペイン1部バルセロナの招待で児童がメッシらと交流した体験も懐かしい。16年から「東北ナショナルトレセンチーフ」など肩書は変わっても、支援は欠かさず。この日も、岩手・陸前高田市に新設された高田松原運動公園の人工芝ピッチを視察するために車を走らせた。

先月13日の大規模余震は福島・Jヴィレッジで迎えた。最大震度6弱の地域。新築された宿泊棟の壁が割れ、水漏れした。復興の道のりが遠いことを実感しつつ、思う。「浮気できないな」。そんな表現で「ずっと東北に居続けて支援を続けていく」ことを誓った。

触れ合ってきた子供の中には、青森山田高で全国選手権を制し、J1浦和に入団したMF武田英寿(宮城県)ら将来の日本代表候補もいる。今後は、被災地の子供らを集めた無償サッカースクール開設の夢も持っている。「スポーツの力は本当すごい。月並みかもしれないが、この言葉を10年間で最も実感している」。

今季から双子の兄誠氏がJ1仙台監督に復帰したことも「心強い」と歓迎。ともに前へ。また笑顔を見に被災地へ。「まだまだ復興半ば。風化し、見捨てられることを恐れる人も多い。街が戻るだけでは足りないし、10年、20年と継続していくよ、皆さんの心が元に戻る日まで」。【木下淳】(ニッカンスポーツ・コム/サッカーコラム「サッカー現場発」)

◆手倉森浩(てぐらもり・ひろし)1967年(昭42)11月14日、青森県五戸町生まれ。剣道からサッカーに転向し、全日本少年大会で4強。兄誠とのコンビが漫画「キャプテン翼」立花兄弟のモデルになった。現役時はFW。五戸高3年時に全国選手権8強。日本ユース代表に選ばれた。86年に住友金属鹿島へ入り、93年にNEC山形(現J2山形)へ移籍。97年に引退した。家族は夫人と1女。

復興支援活動の一環で指導した宮城・高砂SSSの児童たちと記念撮影する手倉森浩氏(最後列左から3人目)(本人提供)
復興支援活動の一環で指導した宮城・高砂SSSの児童たちと記念撮影する手倉森浩氏(最後列左から3人目)(本人提供)
先月13日、東日本大震災の余震で水漏れしたJヴィレッジの新築宿泊棟(手倉森浩氏提供)
先月13日、東日本大震災の余震で水漏れしたJヴィレッジの新築宿泊棟(手倉森浩氏提供)